短編集 ~一息~
『運』
男は雲の階段をのぼり続けていた。既に数時間は経っているはずだが、つかれも空腹も感じない。そして、周囲に広がるのは、先が見えない黄金の景色だけだ。
男は息を吐いた。つかれたわけではない。自分の人生に嫌気がさしていたのだ。
自分に振りかかる災難ときたら、不運としか言いようがなかった。
とにかく、何もないところで転ぶ。外に出れば必ず鳥のフンの直撃を受ける。雨の日は車が飛ばした汚水の犠牲になる。
賭け事だって勝ったことがない。懸賞にも当たった試しがない。
ここにきた理由も最悪なものだった。上司に使わないから貰ってくれと言われてポケットに入れたキャバクラのライターを、妻に発見されてしまったのだ。
それだけならましだった。実家に帰ると言って、家を出た妻を追いかけようとした瞬間、車に轢かれた。
あとのことはよく覚えてはいない。倒れている自分を遠目で見て、天上に持ちあげられたような記憶だけが残っている。
これは天国への階段に間違いない。もし生き返れるのなら――と、男は考えていた。
「こんな俺に、妻はついてきてくれていたのに……なんでこんなことになってしまったんだ。愛していると言いたい。それだけが心残りだ」
思いが言葉になって吐き出された。それでも現実は残酷だ。目の前に門が見えてくる。
天国の門だろう。男が近づいた途端、門は音もなく開いた。
男は目を大きく見開いた。眼前には光を放つ人物が座っていたからだ。
「お前さんが、今日きた新入りさんでっか。人生経過を確認するさかい、ちょっと待っといてえな」
男は神様らしき人物が、ぶ厚い本の中身を確認する様子を、ただぼんやりと見ていた。
すると、ページを捲る神様らしき人物の表情が変わっていった。尻込みしてしまうほどの真剣な表情に、男は息を呑んだ。
「これは手違いや……お前さんの徳が人生に反映されておらへん。すぐに配慮するさかい、手え出して」
言われるままに男が手を出すと、『聖徳』という判が押された。
「これで来世では運がつくはずや。今回は運が悪かったと諦めてもらって来世にな……」
神様らしき人物の言葉を訊いて、男は肩を落とした。妻に感謝の気持ちを伝えることもできないのか。途端に涙があふれてきて、目の前がかすむ。
瞬間、男は足の踏み場を間違えた。時間をかけてのぼった長い階段を転がり落ちていく。
そして、男はいつの間にか、途中で意識を失ってしまっていた。
目が覚めると、そこは病室だった。泣き声に気づいて隣を見ると妻がいた。
「あなた……よかった。事情は全部聞いたわ。それにうわ言であんなことを……勘違いして、ごめんなさい」
男は一度、呪った人生に感謝した。今回は不運が良いほうに転んでくれたらしい。
そして、手にあるのは『聖徳』の文字。これはきっと現世に反映されるのだろう。
不運で階段を転げ落ちたのだろうから、きっと次に同じ場所で転ぶことはない。
それでも、愛すべき妻と会えるのは、この一生だけのはずだ。
男は「ただいま、愛している」と言うと、愛している妻を強く抱きしめた。
男は雲の階段をのぼり続けていた。既に数時間は経っているはずだが、つかれも空腹も感じない。そして、周囲に広がるのは、先が見えない黄金の景色だけだ。
男は息を吐いた。つかれたわけではない。自分の人生に嫌気がさしていたのだ。
自分に振りかかる災難ときたら、不運としか言いようがなかった。
とにかく、何もないところで転ぶ。外に出れば必ず鳥のフンの直撃を受ける。雨の日は車が飛ばした汚水の犠牲になる。
賭け事だって勝ったことがない。懸賞にも当たった試しがない。
ここにきた理由も最悪なものだった。上司に使わないから貰ってくれと言われてポケットに入れたキャバクラのライターを、妻に発見されてしまったのだ。
それだけならましだった。実家に帰ると言って、家を出た妻を追いかけようとした瞬間、車に轢かれた。
あとのことはよく覚えてはいない。倒れている自分を遠目で見て、天上に持ちあげられたような記憶だけが残っている。
これは天国への階段に間違いない。もし生き返れるのなら――と、男は考えていた。
「こんな俺に、妻はついてきてくれていたのに……なんでこんなことになってしまったんだ。愛していると言いたい。それだけが心残りだ」
思いが言葉になって吐き出された。それでも現実は残酷だ。目の前に門が見えてくる。
天国の門だろう。男が近づいた途端、門は音もなく開いた。
男は目を大きく見開いた。眼前には光を放つ人物が座っていたからだ。
「お前さんが、今日きた新入りさんでっか。人生経過を確認するさかい、ちょっと待っといてえな」
男は神様らしき人物が、ぶ厚い本の中身を確認する様子を、ただぼんやりと見ていた。
すると、ページを捲る神様らしき人物の表情が変わっていった。尻込みしてしまうほどの真剣な表情に、男は息を呑んだ。
「これは手違いや……お前さんの徳が人生に反映されておらへん。すぐに配慮するさかい、手え出して」
言われるままに男が手を出すと、『聖徳』という判が押された。
「これで来世では運がつくはずや。今回は運が悪かったと諦めてもらって来世にな……」
神様らしき人物の言葉を訊いて、男は肩を落とした。妻に感謝の気持ちを伝えることもできないのか。途端に涙があふれてきて、目の前がかすむ。
瞬間、男は足の踏み場を間違えた。時間をかけてのぼった長い階段を転がり落ちていく。
そして、男はいつの間にか、途中で意識を失ってしまっていた。
目が覚めると、そこは病室だった。泣き声に気づいて隣を見ると妻がいた。
「あなた……よかった。事情は全部聞いたわ。それにうわ言であんなことを……勘違いして、ごめんなさい」
男は一度、呪った人生に感謝した。今回は不運が良いほうに転んでくれたらしい。
そして、手にあるのは『聖徳』の文字。これはきっと現世に反映されるのだろう。
不運で階段を転げ落ちたのだろうから、きっと次に同じ場所で転ぶことはない。
それでも、愛すべき妻と会えるのは、この一生だけのはずだ。
男は「ただいま、愛している」と言うと、愛している妻を強く抱きしめた。