短編集 ~一息~
『完結まで秘密』
パソコンのキーを打ちこむ音と本を開く音。それが我が家の書斎では当たり前の生活音となっていた。
夫は名が通った推理作家だ。私はアマチュア作家で実績は選考通過のみ。現在は新人賞を目指して活動中だ。
執筆に懸ける熱意と努力に感銘を受けて、私は夫の背中を追い続けてきた。
いつか追いつけるはず。そう考えて頑張ってきたけれど、何年費やしても追いつけないほど夫の背中は遠くにあった。
本当にうまくなった時、優れた者との差を痛感すると聞いたことがある。皮肉にも夫に近づき過ぎたことで、私は頂点を知ってしまったのだ。
それでも私は諦めるつもりはなかった。小説が好きだから。夫に認めてほしいから。
けれど脱稿した時には夫に添削してもらうのが習慣になっていた。
これでは小説家として失格だ。頂点を目指す夫の邪魔をするわけにもいかない。それに今度は自信作であり、力を借りたくない理由もあった。
脱稿した日、書斎では煙草を吸わない夫は外で一服した後、私に話しかけてきた。
「もう僕の助けは必要ないだろうな」
庇護下から離れた子を見る親のような、嬉しそうでもあり寂しそうな表情だった。
「読んでもらわない理由はそうじゃないの。もちろん、作家として独り立ちはしたいけど……あなたの評論は勉強になるし、尊敬もしているから」
「尊敬か。もっと偉い作家もいるよ」
夫は何度も挫折感を味わってきたはずだ。私が添削を断ったために、自信を損失させてしまったのかもしれない。
煙草の紫煙と残り香を追って、使い古した万年筆を持った夫の肩に手を置いた。
「ねえ、作品が入賞したら読んでほしいの」
「入賞したらって、すごい自信だな。言われなくても読むよ」
推敲した作品をプリントアウトする。いつもは印刷した原稿を夫に添削してもらっていたのだが、そのまま応募封筒の中に入れた。封を閉じる前に願掛け代わりに声を入れる。
「入賞決定」と。封を閉じると夫が笑った。
「それ、いつもやっているのか?」
「変かな。はじめてやった時に最終選考まで残ったから」
「いや、君らしいよ。気持ちを封入するところがさ」
吉凶方位を調べてどの方角の郵便局に行くか決めたら、それも夫に笑われた。
ギリギリまで推敲したので速達郵便だ。
結果は二か月後。最後の願掛けとして帰りに神社に寄った。
私の作品は一次、二次と順調に残り続けた。夫は途中経過を知りたがったが隠した。タイトル名も見せたくなかったのだ。
落選したら筆を折ってしまうかもしれない。自信作だけにそう感じる。
今日の夕食は何にしよう。まな板を前にした時、電話が鳴った。見たこともない番号だった。
「おめでとうございます。作品名『筆と魂』大賞です」
作品の主人公は新人作家、夫はプロ作家。お互い支えながら夢をつかむ作品だ。夫が受賞してこの物語は終わる。
私の夫なら読んで笑ってくれるはず。
「自伝か? 直木賞受賞だって。随分と俺のハードルを上げたな」と。
臨時収入となった賞金で、夫の執筆の助けになるものを考えた。
万年筆がいいかもと。
パソコンのキーを打ちこむ音と本を開く音。それが我が家の書斎では当たり前の生活音となっていた。
夫は名が通った推理作家だ。私はアマチュア作家で実績は選考通過のみ。現在は新人賞を目指して活動中だ。
執筆に懸ける熱意と努力に感銘を受けて、私は夫の背中を追い続けてきた。
いつか追いつけるはず。そう考えて頑張ってきたけれど、何年費やしても追いつけないほど夫の背中は遠くにあった。
本当にうまくなった時、優れた者との差を痛感すると聞いたことがある。皮肉にも夫に近づき過ぎたことで、私は頂点を知ってしまったのだ。
それでも私は諦めるつもりはなかった。小説が好きだから。夫に認めてほしいから。
けれど脱稿した時には夫に添削してもらうのが習慣になっていた。
これでは小説家として失格だ。頂点を目指す夫の邪魔をするわけにもいかない。それに今度は自信作であり、力を借りたくない理由もあった。
脱稿した日、書斎では煙草を吸わない夫は外で一服した後、私に話しかけてきた。
「もう僕の助けは必要ないだろうな」
庇護下から離れた子を見る親のような、嬉しそうでもあり寂しそうな表情だった。
「読んでもらわない理由はそうじゃないの。もちろん、作家として独り立ちはしたいけど……あなたの評論は勉強になるし、尊敬もしているから」
「尊敬か。もっと偉い作家もいるよ」
夫は何度も挫折感を味わってきたはずだ。私が添削を断ったために、自信を損失させてしまったのかもしれない。
煙草の紫煙と残り香を追って、使い古した万年筆を持った夫の肩に手を置いた。
「ねえ、作品が入賞したら読んでほしいの」
「入賞したらって、すごい自信だな。言われなくても読むよ」
推敲した作品をプリントアウトする。いつもは印刷した原稿を夫に添削してもらっていたのだが、そのまま応募封筒の中に入れた。封を閉じる前に願掛け代わりに声を入れる。
「入賞決定」と。封を閉じると夫が笑った。
「それ、いつもやっているのか?」
「変かな。はじめてやった時に最終選考まで残ったから」
「いや、君らしいよ。気持ちを封入するところがさ」
吉凶方位を調べてどの方角の郵便局に行くか決めたら、それも夫に笑われた。
ギリギリまで推敲したので速達郵便だ。
結果は二か月後。最後の願掛けとして帰りに神社に寄った。
私の作品は一次、二次と順調に残り続けた。夫は途中経過を知りたがったが隠した。タイトル名も見せたくなかったのだ。
落選したら筆を折ってしまうかもしれない。自信作だけにそう感じる。
今日の夕食は何にしよう。まな板を前にした時、電話が鳴った。見たこともない番号だった。
「おめでとうございます。作品名『筆と魂』大賞です」
作品の主人公は新人作家、夫はプロ作家。お互い支えながら夢をつかむ作品だ。夫が受賞してこの物語は終わる。
私の夫なら読んで笑ってくれるはず。
「自伝か? 直木賞受賞だって。随分と俺のハードルを上げたな」と。
臨時収入となった賞金で、夫の執筆の助けになるものを考えた。
万年筆がいいかもと。