短編集 ~一息~
『ご馳走さま』
『夫婦は二世』という言葉がぴったりだねとよく言われた。
友人からだけではない。私は今でも夫は愛妻家であったと胸を張って言うことができる。
夫とともに過ごしたのは四十五年。人の一生では大半。長い年月のほうだろう。そして、その生活は彼を介護して完結を迎えた。
そんな夫の好きな食べ物がカステラだった。二人で割って食べる。その時、夫は必ず私に茶色の部分を渡してくれた。
「茶色い部分が大好きなの。たくさん食べたい」
若い頃、私がそう言ったのが切っかけだった。床に伏していた夫へ最後に渡したカステラの時も同じ。だから仏壇にはカステラを供える。茶色の部分も一緒に。
年寄りひとりという生活も寂しいが、そう考えたのは夫が亡くなった直後の数日間だけ。娘に一緒に住もうと言われたが、夫と過ごした我が家を捨てるのが嫌で断った。
それでも物騒な事件は多い。新聞の集金にきた青年が、僅かに開いた扉から見える仏壇に気づいて訊いてきた。
「おひとりでお住まいなんですか。夜は不安でしょう」
「ええ、けれど夫と過ごした家も捨てるわけにはいきません。いくらか貯金はありますし、土地を売る必要もありませんから」
そう答えはしたものの、ひとりという気持ちではなかった。夫の記憶が染みついている家と一緒なのだから。遺影を見る度に夫はどこかで見てくれていると信じていた。
季節は変わり盆となる。盆は仏様が自宅に戻ってくる日だ。
迎え火を焚いて、カステラも置いて、遺影に微笑みかけて寝ることにした。
静寂に包まれた室内では、微かな物音でもよく聞こえる。いつもと同じ夜と感じていたが、その日は違った。窓のほうから鋭利なものが擦りつけられるような音がした。
確認しようと思ったが睡魔のほうが強い。気にせずに朝を迎えようと考える。
すると窓が開く音がした。次に足音と気配が近づいてくる。恐怖で鼓動が高まるなか、動いてはいけないという指令が脳内で響いた。
足音は仏壇の前でとまり棚を開ける音がした。あの中には貴重品が入っている。何をしているのか確認しなければならない。
顔をあげると人影が見えた。黒いジャケット、腰には窓を割ったと思われる工具を差している。泥棒だ。そして泥棒は知らない顔ではなかった。新聞の集金にきていた青年だ。
大きな声を出して追い払わなければ。勇気を出して体を起こそうとする。しかし、金縛りに遭ったかのように動けない。声も出すことができなかった。
不意に枕元で気配を感じた。姿は見えないはずなのに心が安らぐ、記憶に刻みこまれた気配。
『動いちゃ駄目だ。刃物を持っている。僕が何とかするから、そのままじっとしていて』
耳元ではっきりと聞こえた若い男性の声。夫ではない。けれど懐かしい声。
声の主は誰なのか。答えが導き出される前に声が響いた。
「誰かいるのか。入っていることは知っているぞ!」
盗みに入った青年は思いがけない声に驚いたのだろう。何も手にすることなく、玄関から逃げだした。
顔をあげると無数の足跡が目についた。青年は土足で侵入したのだ。昼間の青年からは想像できない行動に、ぞっとした。
『すぐに警察に電話したほうがいい。証拠もあるし捕まるはずだ』
姿は見えないのに脳内で響くような声がした。そして答えが導き出された。これは若い頃の夫の声だ。
「どこにいるの。姿を見せて!」
『カステラ、ご馳走さま……』
応えはその一言だけ。近くにあった気配が霧散していく。カーテンの隙間から朝日が差しこんでいた。
すぐに警察に電話をかけて状況を説明した。不思議な体験と聞こえた声は秘密のままで。
駆けつけた刑事さんが言うには、顔を見られた泥棒は凶行に走ることが多いらしい。
もし、言う通りに行動していなければ殺されていたかもしれない。そう考えて恐怖した。
報告を聞いてきた娘には夫だと思われる声のことを話した。どうやら亡くなった人は霊界で最も精気に満ちあふれていた歳になるらしい。ということは、あれはやはり夫の声だったのだろうか。
事情聴取も終わり、あれだけのことがあったので娘の家に泊まらせてもらうことを頼む。
そこでようやく安心して、仏壇に報告することにした。夫にお礼を言わなければ。
何故だかその時、声が聞こえたような気がして振り返った。当然、部屋には誰もいない。
『カステラ、ご馳走さま……』
あの声だけが脳内で呼応している。夫が姿を見せなかったのは、現世での未練を断ち切るため。そう自分に言い聞かせることにした。
供えていたカステラを見た時に、茶色の部分が欠けているように見えたのは気のせいだろうか。
来年もカステラを仏壇に置こう。今度はザラメ付きのすこし高いカステラを。もちろん、茶色の部分も一緒に――。
『夫婦は二世』という言葉がぴったりだねとよく言われた。
友人からだけではない。私は今でも夫は愛妻家であったと胸を張って言うことができる。
夫とともに過ごしたのは四十五年。人の一生では大半。長い年月のほうだろう。そして、その生活は彼を介護して完結を迎えた。
そんな夫の好きな食べ物がカステラだった。二人で割って食べる。その時、夫は必ず私に茶色の部分を渡してくれた。
「茶色い部分が大好きなの。たくさん食べたい」
若い頃、私がそう言ったのが切っかけだった。床に伏していた夫へ最後に渡したカステラの時も同じ。だから仏壇にはカステラを供える。茶色の部分も一緒に。
年寄りひとりという生活も寂しいが、そう考えたのは夫が亡くなった直後の数日間だけ。娘に一緒に住もうと言われたが、夫と過ごした我が家を捨てるのが嫌で断った。
それでも物騒な事件は多い。新聞の集金にきた青年が、僅かに開いた扉から見える仏壇に気づいて訊いてきた。
「おひとりでお住まいなんですか。夜は不安でしょう」
「ええ、けれど夫と過ごした家も捨てるわけにはいきません。いくらか貯金はありますし、土地を売る必要もありませんから」
そう答えはしたものの、ひとりという気持ちではなかった。夫の記憶が染みついている家と一緒なのだから。遺影を見る度に夫はどこかで見てくれていると信じていた。
季節は変わり盆となる。盆は仏様が自宅に戻ってくる日だ。
迎え火を焚いて、カステラも置いて、遺影に微笑みかけて寝ることにした。
静寂に包まれた室内では、微かな物音でもよく聞こえる。いつもと同じ夜と感じていたが、その日は違った。窓のほうから鋭利なものが擦りつけられるような音がした。
確認しようと思ったが睡魔のほうが強い。気にせずに朝を迎えようと考える。
すると窓が開く音がした。次に足音と気配が近づいてくる。恐怖で鼓動が高まるなか、動いてはいけないという指令が脳内で響いた。
足音は仏壇の前でとまり棚を開ける音がした。あの中には貴重品が入っている。何をしているのか確認しなければならない。
顔をあげると人影が見えた。黒いジャケット、腰には窓を割ったと思われる工具を差している。泥棒だ。そして泥棒は知らない顔ではなかった。新聞の集金にきていた青年だ。
大きな声を出して追い払わなければ。勇気を出して体を起こそうとする。しかし、金縛りに遭ったかのように動けない。声も出すことができなかった。
不意に枕元で気配を感じた。姿は見えないはずなのに心が安らぐ、記憶に刻みこまれた気配。
『動いちゃ駄目だ。刃物を持っている。僕が何とかするから、そのままじっとしていて』
耳元ではっきりと聞こえた若い男性の声。夫ではない。けれど懐かしい声。
声の主は誰なのか。答えが導き出される前に声が響いた。
「誰かいるのか。入っていることは知っているぞ!」
盗みに入った青年は思いがけない声に驚いたのだろう。何も手にすることなく、玄関から逃げだした。
顔をあげると無数の足跡が目についた。青年は土足で侵入したのだ。昼間の青年からは想像できない行動に、ぞっとした。
『すぐに警察に電話したほうがいい。証拠もあるし捕まるはずだ』
姿は見えないのに脳内で響くような声がした。そして答えが導き出された。これは若い頃の夫の声だ。
「どこにいるの。姿を見せて!」
『カステラ、ご馳走さま……』
応えはその一言だけ。近くにあった気配が霧散していく。カーテンの隙間から朝日が差しこんでいた。
すぐに警察に電話をかけて状況を説明した。不思議な体験と聞こえた声は秘密のままで。
駆けつけた刑事さんが言うには、顔を見られた泥棒は凶行に走ることが多いらしい。
もし、言う通りに行動していなければ殺されていたかもしれない。そう考えて恐怖した。
報告を聞いてきた娘には夫だと思われる声のことを話した。どうやら亡くなった人は霊界で最も精気に満ちあふれていた歳になるらしい。ということは、あれはやはり夫の声だったのだろうか。
事情聴取も終わり、あれだけのことがあったので娘の家に泊まらせてもらうことを頼む。
そこでようやく安心して、仏壇に報告することにした。夫にお礼を言わなければ。
何故だかその時、声が聞こえたような気がして振り返った。当然、部屋には誰もいない。
『カステラ、ご馳走さま……』
あの声だけが脳内で呼応している。夫が姿を見せなかったのは、現世での未練を断ち切るため。そう自分に言い聞かせることにした。
供えていたカステラを見た時に、茶色の部分が欠けているように見えたのは気のせいだろうか。
来年もカステラを仏壇に置こう。今度はザラメ付きのすこし高いカステラを。もちろん、茶色の部分も一緒に――。