短編集 ~一息~
『美しい女』

 女は必死に逃げていた。正体の知れない影と、徐々に近づきつつある者の足音から。
 女が誰かの追われていると感じはじめたのは三か月前からだった。
 会社帰り、最寄りの駅を降りてから家に着くまでの、ある通路でそいつは確かについてくるのだ。
 自分は美しく、魅力的な女性であると女は自覚していた。仕事場でもその輝きがあふれているのか、男たちは必ず一歩後ろにさがっている。
 ――あの女と付き合いたいが、それは注目の的になるだけではなく、嫉妬の圧力を受けることにもなる。
 だから追いかけてくる者は頑張って声をかけても、想いは実らないと感じて、毎夜、同じ道で待ち構えて家まで追ってくるのだ。
 慌てて自宅に逃げこんだ後に、窓から外の様子を見ても相手も慣れたもので、既に姿もなく逃げてしまっている。
 何度か警察にも相談したが、「被害が出ないことには手の出しようがない。一応、変質者が辺りにいるかパトロールはしますがね」という答えだけで終わってしまっていた。
 女は今日も大きな息を吐くと化粧を落とす。素顔も化粧した顔に劣らず奇麗だ。
 部屋の外で、弟が「化け物が化粧しても大して変わらない」と言っていても女には関係ない。
 ――そう、彼女は自称、世界一美しい女。
 正体の知れない影と、徐々に近づきつつある足音が、街頭で照らされる自分の影と、建物で反響する自分の足音とは、全く気づいてはいない。
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