短編集 ~一息~
『理想主義』

 三年前、私と妻は還暦を迎えた。
 年をとれば関節痛もあるし、顔だって皺が刻みこまれていく。耳も遠く感じてくるし、体力も続かない。そうなると、若い頃が懐かしくなってくる。
 学生の頃、妻は美しかった。ミスキャンバスに選ばれ、校外でも人気が高かった。告白した者も、たくさんいたと聞いていた。
 そんな彼女に私は急接近し、必死にアピールした。同じ登山のサークルに入り、彼女をエスコートし、声をかけ、手を貸し続けた。その甲斐あって、私は優しく頼りになる男の地位を彼女の中で確立させ、卒業直前の時、見事、恋を成就させたのである。
 そして、大学を卒業してから結婚。彼女と過ごす日々は楽しかった。
 しかし、互いに仕事に就くと、共にいる時間もすくなくなる。
 子供が生まれると、妻は子供の世話に夢中になり、私への興味がなくなっていった。
 それなので、仕事が終わると部下を連れて飲み屋に行く。気分よく帰ると鍵は開いているが、室内は真っ暗だ。深夜に帰ると子供が目を覚ますということで、寝室は別々となった。しかし、妻が家事を全てこなしてくれるお蔭で、私は何不自由なく自由奔放に過ごせた。
 子供が独り立ちすると、妻は家を出ることが増えて、友人と旅行に出掛けることが多くなった。
 その時は、家に私ひとりなので外食で寿司を食べる。ゴルフや釣りに出掛ける時もあった。
 そして、定年退職をした、ここ三年間は妻との会話がほとんど成立しなくなっていた。
 妻とともに笑い、語り合っていた日々が懐かしい。あの美しい頃の妻に戻ってくれたら、互いに若い頃の気持ちに戻るはずなのに――。
 そんな時、あるニュースが私の耳に飛びこんできた。
「人類に再生という違った道が見えてきました。若返りの研究が成功したのです」
 その研究は既に国も認定しており、一般の募集も受け付けているものだった。
 ただ、若返りには大金が必要となる。しかし、仕事の虫だった私だ。金はあった。すぐに妻とともに若返ることを決めた。妻もふたつ返事で了解した。
 若返りをする日、妻は手掛けバッグを持っていた。その中に化粧ケースがあるのを私は知っている。若返ったら化粧をするのだろう。
 そして、その後は二人で――そう思うと鼓動が高鳴る。
 研究所に着くと、白衣の男が私たちを見て出てきた。
「ようこそ。あなた方は幸運です。誰よりも先に、この奇跡を体験できるのですから」
 白衣の男の説明を聞くと、液で満たされたカプセルに入り寝転がった。
 脊髄に注射が打たれ、酸素マスクをつけられる。説明では体内と外から細胞の再生を促すと聞いていた。
 完全再生までの時間は三日。
 睡眠薬が含まれているのだろうか。液に満たされていく自分の体を感じながら、睡魔に身をゆだねた。

「起きてください。旦那さま……若返りは終了です」
 混濁する意識の中、男の声が聞こえた。目を開けると先程の白衣の男だ。いや、正確には先程ではないのだろう。三日前に会った男だ。
「年齢的には二十歳ほどになっています」
 手鏡を伏せた状態で渡された。二十歳の私も女性には人気があった。自慢ではないが、格好よく、もてていたほうだと言える。
 そして、緊張しながら鏡を見ると、そこには顔が丸い小太りの男がいた。
「……えっ?」
 これが私なのかと思った。途端に膨らんでいた期待が失望へと変わった。
 そうだ。若返るだけなのだ。体についた余分な脂肪が取れることはない。
「そうだ。妻は? 妻はどこに?」
 あの美しい妻と愛の一時を――。
 だが、隣のカプセルにいたはずの妻は見えず、代わりに白衣の男が答えた。
「奥さまなら、生き生きとした表情で先に行くと言って出ましたよ。どうやら若い男性と、お約束をしていたみたいです」
 そうだ。そして、定年から過ごしてきた怠惰な日々が払拭できるわけでもないのだ。
 仲むつまじく入ってきた年配夫婦を見て、私は深い息を吐くしかなかった。
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