短編集 ~一息~
『小さな声3』

 小さな声であっても、命は私たちと同じ価値なのではないかと考える時があります。
 それは、私が草花の声を聞けるようになってしまったからかもしれません。
 あなたにとって何気ない景色でも、そこにはたくさんの小さな声があります。
 その景色が突然変わってしまったら? 小さな声はどこにいってしまうのでしょうか。

 私が小学四年生になった年。我が家の近くでは区画整理の話が出ていました。
 車通りが多い細い道に、小中学校の通学路があるので危険という理由でした。空き地や田畑がまず市に買いあげらると、道路工事がはじまります。
 何台もの重機がくると、アスファルトで土が固められ、空き地や田畑がなくなっていきました。人の力は野生の草花にとっては脅威です。草花の声が聞こえていた私は、潰されていく小さな悲鳴を聞くのが嫌で、工事をしている場所を避けるように通学していました。その時です。
 緑色の服に、淡いピンクのバンダナをつけている小さな男の子が立っているのが見えました。その男の子の近くにはイヌノフグリ。
 母に、「今では少なくなっている花なのよ」と教わっていたので、すぐにイヌノフグリの精だとわかり、慌てて近づきました。
「おはよう、気持ちいい朝だね。ねえ、なにを見ているの?」
 険しい表情で遠くを見ていたイヌノフグリの精は、振り返って私を見ました。
「なんだ、人間か……仲間の声を聞いているんだ」
 イヌノフグリの精はそう言うと私には興味がないとでもいうように、また遠くの景色を見ます。仲間の声を聞いていると言われて、私はすごく怖くなりました。彼らが住んでいる土地を壊しているのは、他でもない私たち人間なのですから。
「ここからじゃ何も見えないからな。声を聞くしかない。何でみんな、怖い、嫌だと言っているんだ?」
 私はその答えを知っています。教えるべきなのかと悩みました。何故なら、イヌノフグリの精がいる場所も、区画整理で道路になってしまう場所だったのです。
「ねえ、私の家にこない? 私の家なら、こんな危ないところにいるよりも安全だよ」
「なんで?」
 間もあけずに訊かれました。私は子供だったので、うまく理由を考えることができずに悩みます。けれど、イヌノフグリの精は急かすような顔をし、通学の時間も差し迫っている。
「あなたがいるその場所、なくなっちゃうの。固められて車が通る場所になるの。だから私はあなたを助けたいの」
 慌てて一気に言ったので、イヌノフグリの精は理解していないような顔をしていました。
 そして、その顔が驚きや怒りの顔になると思えば、逆に落ち着いた表情になりました。
「そうか、教えてくれてありがとう。けど、俺はここにいる」
「えっ、なんで?」
 私はイヌノフグリの精に「じゃあ、お願いするよ」と頼まれると思っていました。
 それなので、断られるのが意外だったのです。だって、このままだと潰されて死んでしまうのですから。
「なんでって……俺が住んでいる場所だからここにいるんだよ」
「だって、ここにいると車に潰されちゃうかもしれないんだよ」
「じゃあ、君は俺のようになったら、住んでいる場所を捨ててどこかに逃げるのかい?」
 言われてハッとしました。男の子はイヌノフグリの精。人ではないのです。だから、私の考えと違うのは当たり前でした。
「俺はここが好きなんだ。だからここにいる」
 イヌノフグリの精の瞳には、強い決意が表れた輝きがありました。それは、どんな脅威も恐れない小さな戦士の顔でした。その目を見た私は、イヌノフグリの精に何も言えなくなってしまいました。そして、そのまま学校に行ったのです。
 学校にいる間もボーリングの音や重機の動く音が聞こえてきていました。授業中は小さな声が聞こえてこないのが、私にとって救いだったのかもしれません。けれど、イヌノフグリの顔が忘れられなくて、私は授業中、先生に問題を解くようにと差されたのも気づきませんでした。それだけ心配だったのです。学校が終わると、慌ててイヌノフグリがいた場所に向かいます。
 そして――着いたそこには何もいませんでした。
 パワーショベルが地面を返し、ミキサー車がコンクリートを落し、ローラー車が地面を固める。そこにはたくさんの草花たちがいたはずなのです。けれど、ほんの数時間で人工物で固められた世界に変えられていました。
 何故、無理にでもイヌノフグリを助けなかったのか。けれど助けたくてもできなかった。幼心で葛藤し、その場で泣き崩れました。
 工事作業員が私を見て心配し、家に連れ帰ってくれたのを今でも覚えています。
 あの日から、何度かイヌノフグリを見ました。私が見るイヌノフグリの精は、いつでも決意あるまなざしで遠くを見つめています。きっとそれが絶滅危惧種という運命を受け入れてきた、在来種でもある彼らの誇り高き姿なのでしょう。

 草花に触れている時、ふと小さな声が聞こえる時があります。大人になった私には、もう草花の精は見えません。けれど、大事に世話をしようと頑張っているので、何か話しかけてくれているのかもしれませんね。
 草花に触れている時、ちょっとだけ耳を傾けてみてください。
 身近な場所にある小さな声の物語。彼らはいつでも純粋な想いを語ってきているのです。
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