ベナレスからの手紙

杏子への手紙1

柴山杏子宛ての手紙が後2通あった。その一つは69年12月のものだ。
これは覚えている。日本を出ると決めた前の年の暮れに出したものだ。

「杏子さんお元気ですか?来年はもう小学校の先生ですね頑張ってください。
僕は年明けて3月に休学届けを出し欧米、中近東、インドを旅してきます。
自分にかけている何か、心と精神のバックボーンになる何かを見つけに一度
しかない人生、思い切って行ってきます。

ひょっとしたら帰ってこないかもしれません。どっかの村に住み着いて仙人
のようになってるかも、想像してみるとおかしいですね。中近東ではいまだに
戦争中の国が多くとても危険です。地雷を踏んだらさようなら!飛行機もよく
落ちるそうでテロの危険もあります。それでも一度しかない人生、絶対にいろんな国々を見てみたい。親元にも話をして水杯みずさかずきで出発することになりました(これはオーバーです)。

今年は年の初めから寮問題がこじれて寮費不払い闘争に入りました。僕たちの
寮は社青同解放派と言う青ヘルが牛耳っています。風呂も食堂も閉鎖されて殺伐
としています。今ではめったに帰りません。ではどうしているかと言うと、

祇園宮川町に喜楽荘と言う昔の花街の女郎屋が昔のまま残っていて、そこの
二階の一部屋に住んでいます。部屋には何もなく廊下の向こうに押入れが
あって布団は外から敷くわけですが僕は寝袋で寝ていました。枕もとに小さな開
き戸があって一階の帳場につながっています。

当時は朝早くからレストラン。夕方から木屋町のクラブ。真夜中に夜警。その間
従業員の送迎ととてもハードで見かねたクラブのママさんが紹介してくれたのが
喜楽荘だったのです。
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