サマーノウト
数年後の真夏の日、新聞を覗いたあたしは思わず口角を上げた。
『天才若手作曲家、《サマーノウト》作曲当時のエピソード』
という題が大きく見出しに載っていた。
あの日の彼が、記者の質問に答えている。
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この曲はどこで作られましたか?
――海沿いの街です。街の名前は言えま
せんが。祖母の家があって、沈む夕陽が
印象的でした。
何かこの曲でエピソードはありますか?
――あ…そうですね。一つだけ。
曲が完成した日、僕はテスト演奏をする
つもりで砂浜に行って、この曲を弾いて
いました。そしたら、ゴールデンレトリ
ーバーが走ってきて、飼い主の女性が砂
まみれで駆けてきて――
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…あの日の彼は、本当に作曲家になったようだった。
しかも新聞の一面を飾るような、かなり名の知られた天才若手作曲家として。
…あたしはいつでも鮮麗に、あの音を思い起こすことができる。
初めて彼が聴かせてくれた、ヴァイオリンの素朴な夏の音色を。
『――曲を弾き終わった途端、彼女は一言「綺麗な曲」だと僕に言ってくれました。彼女のこの言葉がなければ、サマーノウトはきっと世には出ていなかったでしょう』
写真の中で、彼はあの日となんら変わることがなく、白い歯をこぼし無邪気に笑っている。
『叶わないでしょうが、僕はもう一度、ゴールデンレトリーバーを連れた砂まみれの彼女に会いたいです。会って、感謝をしたいです。
作曲家を目指していた僕に、
確かな自信をくれた彼女へ向けて』
…砂まみれ、という言葉がくすぐったくてしかたがなかった。