うちの嫁
目の前に、主人が立っておりました。
階下では、嫁が興奮しているのか手摺りにぶら下がって叫んでおります。
お義母さん‼︎気をつけて‼︎
そんな風に聞こえたんですね。ですので一歩、すり足で我が身を押し出しました。いつも大きな体躯の陰で息を潜めていたわたくしが、グイッといったわけです。
すると主人が後ずさりました。
後ずさったのです。
「美津子、お前…」
だかなんだか呟きながら、目に見えて怯えています。こんな主人を見たのは初めて。近所の花火にすら動じることがないお方が、なにを恐れおののくのか。
道ができました。
物陰から窺うだけの道筋が、蛍のように光り輝いているではありませんか。
わたくし、染野美津子に初めて与えられた道。
するりするり、するするり。
闊歩したわけでございます。光の先で待っている嫁の元へと。幸せをその手に掴むことができる、私の嫁。
「く、来るな⁉︎」
いや私は、貴方の元へ参上しているわけではなく、この光を辿っているのです。主人を押し退けたかったのですが、どうやら主人を慄(おのの)かせているのは私のようで、ついと背を向けて逃げ出すさま、足を踏み外したのでございます。
階段を転げ落ちていく主人はその身体で、わたくしの道をなぞるように消してしまわれました。
犬は身動き一つしません。
私の道を消し去った、大きな大きな犬。
なにを恐れることがあったのだろうかと、頬に手を触れた時、はたと気づきました。
わたくし、信明の白いブリーフを頭から被って、さやえんどうの筋を取っておりましたの。
合点がいきました。
惜しみながらブリーフを取るとそこには、犬ではなく、木偶の坊が転がっております。見たことがない男が、手足をあさって方に折り曲げて絶命していました。
わたくしの、主人でございます。