優しい歌 ※.。第二楽章 不定期亀更新
「有難うございます」
そう告げて、口元にあてていた紙袋をまた畳むと
机の傍に片付ける。
そのままタブレットケースに手を伸ばして、
頓服用の精神安定剤を取り出すと、
鞄の中のペットボトルに入った水で流し込んだ。
ふらふらする。
宙を漂うような感覚が僕を襲う。
それと同時に携帯の緊急ブザーが大きく鳴り響いて、
家が大きく揺れた。
僕の中に甦る記憶。
『嫌、違う。
違う。違う。違う』
何度自分に言い聞かせても
あの時間が僕を苦しめていく。
僕を捕らえて離さない。
僕を苦しめないで。
呼吸をさせて…………怖がらせないで、
独りにしないで、追い詰めないで、追い込まないで……。
鮮明に脳裏に浮かび上がってくる現実。
倒壊した建物、暗闇の世界。
僕の耳に次々と入ってくる……苦痛の声。
そんな声が今も僕をあの時間に縛り付ける。
『助けて』
消え入るような声で何度も呟かれる声。
『真人、真人?』
姿の見えない母が僕の名前を呼び続ける声。
そんな声が……僕の傍で聞こえなくなっていく。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
僕は知らない。
僕は関係ない。
僕は……僕は……自分が今何処にいて、
自分が今何をしているのかもわからない。
ただ……今は目の前の現実から解放されたいだけ。
解き放たれたいだけ。
もう嫌。
もう嫌だ……こんなの僕じゃない。
……僕じゃない……。
「真人君、大丈夫だから。
落ち着いて……はいっ……ゆっくりと深呼吸しようか。
真人君、大丈夫だから……もう怖くないから、
僕も此処に居るから」
背後から急に抱きしめられて、
僕の体はビクっと、一瞬硬直する。
冬お兄ちゃんの懐かしく優しい声が
僕をあの時間から、今の現実へと誘ってくれた。
後ろから抱きすくめられて、
その体の触れ合いから互いの体温を感じる。
今も乱れ続ける呼吸を整える努力をする。
何度も深呼吸を繰り返している間に、
体の震えはゆっくりとおさまって、
僕は何とか会話が出来そうな状態へと近づいた。
僕が落ち着くまで、冬お兄ちゃんは
ずっと傍で見守ってくれる。
言葉は何もない。
でもその中に優しい温盛が漂っていた。
それだけで僕の心は少し満たされていく。
「ごめんなさい」
僕が第一声でようやく伝えられたのは
この言葉。
迷惑をかけてしまったから。
「真人、言葉が間違ってるよ。
瞳矢もそうだけど、そういう時は謝らなくていいんだ。
真人は何も悪くないよね。
PTSDの発作は、起こそうとして起きるものじゃない。
だから、そんな時に必要な言葉は『ありがとう』でいんだよ。
神楽姉さんにも……真人のお母さんにも、
-こめんなさい-じゃなくて有難うでいんだよ』
ふと遠い思い出が僕の記憶の海から
溢れ出してくる。
「冬お兄ちゃん……」
僕は思わず、うちに秘めつづけたその名前を紡ぐ。
「真人、思い出したの?」
「ずっと気になってた。
言い出せなかったけど」
冬お兄ちゃんは、あの頃と同じように
僕の隣に腰をおろして、
微笑みながら包み込んでくれる。
「真人、全部を独りで抱え込もうとしなくていいから。
独りじゃないんだよ。
僕が出来ることなら、いつでも相談してくれればいいから。
僕は全部知ってるから。
真人君の体の痣のことも、院長夫人のことも」
そう言ってくれた、冬お兄ちゃんの言葉が
優しく僕に降り注いだ。