くれむつの恋
……
翌日、日が暮れ始め、瓦がオレンジ色の光を放ち始めた頃、
街を行く人々は戸惑っていた。
一人の少女が、髪を乱し、よたよたと頼りなく歩くのを目にしたからだ。
よく見ると、着物もどこかしら乱れていた。
少女を目撃した者は皆、何かあったのではないかと頭を過ぎったが、
多くの者が声をかけなかった。
少女の異様さに声をかけるのがはばかれたのだろう。
それでも中には声をかける者もあった。
しかし、少女の耳には届かず、少女はふらふらとした歩みを止めなかった。
彼女が向った先は、森だった。
そう、彼女はお時であった。
お時は虚ろな瞳のまま、森へと入って行った。
お時が呆然と歩いていると、騒がしい声が耳に届いた。
森の奥の方で、何やら叫んでいる者がいた。
その声は喜びに満ちていた。
お時は一瞬そちらに気をとられたが、とても行く気にはなれなかった。
とにかく、早く、一刻も早く、あの丘へと行きたかった。
あの丘へ行って、ハコを抱きしめてすがりつきたかった。
お時はあの丘へと抜けて、やわらかな風に吹かれながら町を見下ろした。
何の感慨もなかった。
ただ、お時は呆然と町を眺めていた。
何も映さない、虚ろな瞳で……。
……
ハコはいつものように丘へと向う道の途中にいた。
あの少年達を見つけたら、お時に会わないようにさせるため、
少年達を遠ざけ、撒こうと道中で座っていたのだ。
するとやかましい声が響いてきた。
やつらだ! と、ハコは身構えた。
少年三人が、丘へと続く道を鼻歌交じりで歩いてきていた。
ハコはいつものように草陰へと潜み、少年達の前に飛び出した。
少年達はいつものように、猫だ! と叫び、追いかけ出した。
そこで、いつもと違う事が起こった。
少年達は追いかけながら、石を投げ始めたのだ。
道中で拾ってきたのか、懐から大小入り混じった石を取り出し、ハコに向って投げた。
油断していたハコは、最初の攻撃に当たってしまった。
「ギャ!」
小さく悲鳴を上げて、崩れ落ちそうになったが、踏ん張って走り続けた。
ここで止ってしまっては、狙い撃ちの的になってしまうと本能的に判断したのだ。
ハコは走り続けた。
少年達が追いつく速度で。
途中何度か当たりそうになったが、最初の攻撃を受けて以来、
当たらずに避けられていた。今の今までは……。
ハコは、逃げる最中、ぼんやりとした音を捉えた。
サクサクと草を踏む音……お時だ。
しかし、その音にはいつものような軽快さが感じられなかった。
足取り重く、淀み、生気が感じられない。
お時に何かあったのだ、とハコは直感した。
彼女の元に駆けていかなければという衝動に駆られた。
しかし、これが隙を生んだ。
お時の身を案じた瞬間、少年の放った手のひら程ある石が、ハコの頭に命中した。
「やったぞ!」
ハコに命中させた少年は、歓喜のあまり叫びに似た声を放った。
わっ! と沸く少年達。
「死んだか?」
倒れこむハコを見て、少年の一人が呟く。
少年達はハコを覗き込んだ。
「うわ! 血が出てる!」
ハコの頭からは血が流れ出ていた。
少年達はそれを見て、急に恐ろしくなったのか、
どうしようかと話し始めた。しかし、恰幅の良い少年が
「放っておけ!」
と小さく叫んで走り出した。二人の少年もそれに続いた。
彼らは恐ろしくなって逃げ出したのだ。
ハコは意識が遠くなって行くのを感じながら、強く思った。
(早く行かなくちゃ……)
しかし、鐘の音を待たずして、ハコの瞳は閉じられた。
……
ゴーン……と、一つ目の鐘が鳴った。
その瞬間お時の虚ろだった瞳に、希望の色が薄っすらと走った。
ゴーン……と、二つ目の鐘が響いた。
お時は辺りを見渡す。その顔には、期待が張り付いていた。
ゴーン……、三つ目の鐘が低く響いた。
不安が顔にくっきりと浮かび上がる。
ゴーン……。
四つ目の鐘の余韻が響く頃、お時の瞳に色が失せた。
ゴーン……と五つ目の鐘が悲しげに鳴る。
お時の瞳はまた、虚ろい、彼女はうつむいた。
――ゴーン……。
無常にも六つ目の鐘が鳴る。
お時は顔を上げた。
その瞳には、やはり色はなかった。
何も映さず、ただ町を見下ろした。
六つ目の鐘の余韻が終わる頃、彼女の虚ろな瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
……
夕日がすっかり落ちて、星が輝き、丸い月が辺りを照らす頃、
あの丘に一匹の猫の姿があった。
白い毛を月に光らせ、頭には血の痕がこびりついている。
ハコだ。
ハコの瞳は町を映し、月の光に反射して、キラキラと輝いていた。
まるで瞳に涙を溜めているようだった。
お時の姿はどこにもない。
――そして、この先ハコがお時に会う事は終ぞなかった。
翌日、日が暮れ始め、瓦がオレンジ色の光を放ち始めた頃、
街を行く人々は戸惑っていた。
一人の少女が、髪を乱し、よたよたと頼りなく歩くのを目にしたからだ。
よく見ると、着物もどこかしら乱れていた。
少女を目撃した者は皆、何かあったのではないかと頭を過ぎったが、
多くの者が声をかけなかった。
少女の異様さに声をかけるのがはばかれたのだろう。
それでも中には声をかける者もあった。
しかし、少女の耳には届かず、少女はふらふらとした歩みを止めなかった。
彼女が向った先は、森だった。
そう、彼女はお時であった。
お時は虚ろな瞳のまま、森へと入って行った。
お時が呆然と歩いていると、騒がしい声が耳に届いた。
森の奥の方で、何やら叫んでいる者がいた。
その声は喜びに満ちていた。
お時は一瞬そちらに気をとられたが、とても行く気にはなれなかった。
とにかく、早く、一刻も早く、あの丘へと行きたかった。
あの丘へ行って、ハコを抱きしめてすがりつきたかった。
お時はあの丘へと抜けて、やわらかな風に吹かれながら町を見下ろした。
何の感慨もなかった。
ただ、お時は呆然と町を眺めていた。
何も映さない、虚ろな瞳で……。
……
ハコはいつものように丘へと向う道の途中にいた。
あの少年達を見つけたら、お時に会わないようにさせるため、
少年達を遠ざけ、撒こうと道中で座っていたのだ。
するとやかましい声が響いてきた。
やつらだ! と、ハコは身構えた。
少年三人が、丘へと続く道を鼻歌交じりで歩いてきていた。
ハコはいつものように草陰へと潜み、少年達の前に飛び出した。
少年達はいつものように、猫だ! と叫び、追いかけ出した。
そこで、いつもと違う事が起こった。
少年達は追いかけながら、石を投げ始めたのだ。
道中で拾ってきたのか、懐から大小入り混じった石を取り出し、ハコに向って投げた。
油断していたハコは、最初の攻撃に当たってしまった。
「ギャ!」
小さく悲鳴を上げて、崩れ落ちそうになったが、踏ん張って走り続けた。
ここで止ってしまっては、狙い撃ちの的になってしまうと本能的に判断したのだ。
ハコは走り続けた。
少年達が追いつく速度で。
途中何度か当たりそうになったが、最初の攻撃を受けて以来、
当たらずに避けられていた。今の今までは……。
ハコは、逃げる最中、ぼんやりとした音を捉えた。
サクサクと草を踏む音……お時だ。
しかし、その音にはいつものような軽快さが感じられなかった。
足取り重く、淀み、生気が感じられない。
お時に何かあったのだ、とハコは直感した。
彼女の元に駆けていかなければという衝動に駆られた。
しかし、これが隙を生んだ。
お時の身を案じた瞬間、少年の放った手のひら程ある石が、ハコの頭に命中した。
「やったぞ!」
ハコに命中させた少年は、歓喜のあまり叫びに似た声を放った。
わっ! と沸く少年達。
「死んだか?」
倒れこむハコを見て、少年の一人が呟く。
少年達はハコを覗き込んだ。
「うわ! 血が出てる!」
ハコの頭からは血が流れ出ていた。
少年達はそれを見て、急に恐ろしくなったのか、
どうしようかと話し始めた。しかし、恰幅の良い少年が
「放っておけ!」
と小さく叫んで走り出した。二人の少年もそれに続いた。
彼らは恐ろしくなって逃げ出したのだ。
ハコは意識が遠くなって行くのを感じながら、強く思った。
(早く行かなくちゃ……)
しかし、鐘の音を待たずして、ハコの瞳は閉じられた。
……
ゴーン……と、一つ目の鐘が鳴った。
その瞬間お時の虚ろだった瞳に、希望の色が薄っすらと走った。
ゴーン……と、二つ目の鐘が響いた。
お時は辺りを見渡す。その顔には、期待が張り付いていた。
ゴーン……、三つ目の鐘が低く響いた。
不安が顔にくっきりと浮かび上がる。
ゴーン……。
四つ目の鐘の余韻が響く頃、お時の瞳に色が失せた。
ゴーン……と五つ目の鐘が悲しげに鳴る。
お時の瞳はまた、虚ろい、彼女はうつむいた。
――ゴーン……。
無常にも六つ目の鐘が鳴る。
お時は顔を上げた。
その瞳には、やはり色はなかった。
何も映さず、ただ町を見下ろした。
六つ目の鐘の余韻が終わる頃、彼女の虚ろな瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
……
夕日がすっかり落ちて、星が輝き、丸い月が辺りを照らす頃、
あの丘に一匹の猫の姿があった。
白い毛を月に光らせ、頭には血の痕がこびりついている。
ハコだ。
ハコの瞳は町を映し、月の光に反射して、キラキラと輝いていた。
まるで瞳に涙を溜めているようだった。
お時の姿はどこにもない。
――そして、この先ハコがお時に会う事は終ぞなかった。