くれむつの恋
1鐘
1786年
――江戸時代中期――
黒髪のさらさらとした長い髪を風に揺らしながら、
一人の少女が街を見下ろしていた。
ちょうど十歳くらいに見えるこの少女は、森を抜けた先にある、
街を見下ろせる崖の上のこの丘がお気に入りだった。
美しい横顔が印象的な少女は、虚ろな瞳を街に見せながら、
ぼうっと立っている。
すると、遠くの時計台から ゴーン…… ゴーン……
と鐘の音が鳴り始めた。
捨て鐘が終わると同時に、背後の森からガサガサっと茂みが揺れる音がして、
彼女は一瞬肩を震わせた。
振り向くと同時に出てきたのは、ふさふさした毛の白い雄猫だった。
「ニャア~」
少女を見つめながら長く鳴く。
「何やあんさんか」
途端に少女の表情が和らいだ。
手招きで猫を呼び、その手に猫が擦り寄る。
わさわさと猫を撫でながら、少女は猫に愉しそうに話しかけた。
「なあ、あんさん、一体何処からくるん?」
「ニャ」
「にゃ。じゃ分からへんわ」
「ニャア」
「にゃあ。でも分からへん」
そう言ってカラカラと笑う。
――ゴ~ン……。
「あっ」
最後の鐘が鳴ったすぐ後に、猫は少女の手を離れた。
一瞬少女を見て、そのままスタスタと立ち去ってしまった。
「なんや……」
残念そうに少女は呟いて、暮れかかっている街を見下ろした。
少女と猫は一ヶ月ほど前からこの丘で会うようになった。
【暮れ六つ】と呼ばれる、夕暮れに鳴る六回の鐘の音の間だけ、猫は顔を出すようになった。
たった六回、その短い間だけ、少女は猫と会うことが出来るのだ。
「ふう……」
少女は憂鬱そうに息を吐いて、重い腰を上げた。
「暗くなる前に帰らんと」
自分にそう言い聞かせて帰路につく。
少女は【濱茉屋】と書かれた、大きな旅籠屋を見上げながら入って行った。
辺りはすでに薄暗くなっていた。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
少女が呟くと、玄関の正面にある帳場に座っていた番頭が返事を返した。
番頭の名は与平といい、中肉中背で、三十代半ばといった面立ちで、
よく人が良さそうに、にこにこと笑う男だった。
だけど少女はこの笑顔が嫌いだった。
うそ臭いと感じるし、何より厭らしさを感じた。
少女は気まずそうに、視線を逸らす。その時、女の金切り声が飛んできた。
「お時!」
お時と呼ばれた少女はびくっと肩を震わせて、声のした方を見る。
するとそこにいたのは、三十代前半くらいの女だった。
女はこの濱茉屋の女将で、少しきつめの眼つきをしていた。
「お時! またお前、髪をそんな風に下げて! 誰が結うんだい!?」
「……自分でやります」
「当たり前だよ! まったく!
自分の仕事が終わったからってすぐにどっかにいなくなって」
ぶちぶちと文句をたれる女将を与平が「まあまあ」と言って宥めた。
「お時ちゃん、はやくお部屋に行ってご飯すましちゃいなさい」
「はい」
そう返事を返して、通り過ぎると、女将の大きな声が飛んできた。
「その前に、みんなの賄いの皿ちゃんと洗ってからにするんだよ! いいね!?」
「……はい」
軽く後ろを振り向きながら、呟くように返事を返し、歩き始める。
すると後ろで女将が憎たらしく呟いた。
「ったく愛想のない!」
その辛辣な言葉を受けながら、お時は調理場へ向かった。
自分の感情を堪えながら茶碗を洗い終わる頃にはすっかり日は落ちて、
廊下は真っ暗になっていた。
なれた手つきで行灯に火を点ける。
客商売のため、濱末屋では客室には菜種油の行灯・灯台を置いているが、
従業員にはそれを使う事を許されていないため、
鰯の油で作った安い魚油の行灯を使っている。
魚臭い、ひどい臭いが漂ってくる。
少女ことお時は、鼻をつまんで調理場を出た。
暗い廊下を行灯の弱い光を頼りに進む。
ついた先は部屋とは呼べない掃除用具入れのような狭い押入れだった。
押入れは、階段の下に隠し部屋のようにしてついている。
その戸をガラリと音を立てて開けると、押入れは二段になっていて、
上の段にはお時の着替えの着物が置いてあったが、他には何もなかった。
正確に言えば、置けるスペースがなかった。
下の段には布団がひいてあって、その布団も入りきらず端が少し折り曲げられていた。
その上におにぎりが四つとたくあんが添えて置いてあった。
それがお時の今日の夕飯だ。
「ふう」
ため息をひとつ吐いて、布団の上にボス! っと座ると、
厚手の掛け布団に包まる。
春が来たとはいえ、まだまだ夜は寒い。
お時は鼻をズズッとすすった。
そして行灯の火を消して戸を閉めた。
暗くて何も見えなくなるうえ、寒さもやってくるが、
狭い押入れの中ではすぐに魚油の臭いが充満して気持ちが悪くなってしまう。
お時は手探りでおにぎりを掴んでほおばった。
途端にぽつりと雫が頬を伝った。それを合図に、大粒の涙がせきを切ったようにあふれ出す。
「うう……ふっ……ぐっ」
声が漏れないように、おにぎりを口の中でいっぱいにし、そのまま横になって、もぐもぐと口を動かすうちに、泣き疲れて眠りについてしまった。
――江戸時代中期――
黒髪のさらさらとした長い髪を風に揺らしながら、
一人の少女が街を見下ろしていた。
ちょうど十歳くらいに見えるこの少女は、森を抜けた先にある、
街を見下ろせる崖の上のこの丘がお気に入りだった。
美しい横顔が印象的な少女は、虚ろな瞳を街に見せながら、
ぼうっと立っている。
すると、遠くの時計台から ゴーン…… ゴーン……
と鐘の音が鳴り始めた。
捨て鐘が終わると同時に、背後の森からガサガサっと茂みが揺れる音がして、
彼女は一瞬肩を震わせた。
振り向くと同時に出てきたのは、ふさふさした毛の白い雄猫だった。
「ニャア~」
少女を見つめながら長く鳴く。
「何やあんさんか」
途端に少女の表情が和らいだ。
手招きで猫を呼び、その手に猫が擦り寄る。
わさわさと猫を撫でながら、少女は猫に愉しそうに話しかけた。
「なあ、あんさん、一体何処からくるん?」
「ニャ」
「にゃ。じゃ分からへんわ」
「ニャア」
「にゃあ。でも分からへん」
そう言ってカラカラと笑う。
――ゴ~ン……。
「あっ」
最後の鐘が鳴ったすぐ後に、猫は少女の手を離れた。
一瞬少女を見て、そのままスタスタと立ち去ってしまった。
「なんや……」
残念そうに少女は呟いて、暮れかかっている街を見下ろした。
少女と猫は一ヶ月ほど前からこの丘で会うようになった。
【暮れ六つ】と呼ばれる、夕暮れに鳴る六回の鐘の音の間だけ、猫は顔を出すようになった。
たった六回、その短い間だけ、少女は猫と会うことが出来るのだ。
「ふう……」
少女は憂鬱そうに息を吐いて、重い腰を上げた。
「暗くなる前に帰らんと」
自分にそう言い聞かせて帰路につく。
少女は【濱茉屋】と書かれた、大きな旅籠屋を見上げながら入って行った。
辺りはすでに薄暗くなっていた。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
少女が呟くと、玄関の正面にある帳場に座っていた番頭が返事を返した。
番頭の名は与平といい、中肉中背で、三十代半ばといった面立ちで、
よく人が良さそうに、にこにこと笑う男だった。
だけど少女はこの笑顔が嫌いだった。
うそ臭いと感じるし、何より厭らしさを感じた。
少女は気まずそうに、視線を逸らす。その時、女の金切り声が飛んできた。
「お時!」
お時と呼ばれた少女はびくっと肩を震わせて、声のした方を見る。
するとそこにいたのは、三十代前半くらいの女だった。
女はこの濱茉屋の女将で、少しきつめの眼つきをしていた。
「お時! またお前、髪をそんな風に下げて! 誰が結うんだい!?」
「……自分でやります」
「当たり前だよ! まったく!
自分の仕事が終わったからってすぐにどっかにいなくなって」
ぶちぶちと文句をたれる女将を与平が「まあまあ」と言って宥めた。
「お時ちゃん、はやくお部屋に行ってご飯すましちゃいなさい」
「はい」
そう返事を返して、通り過ぎると、女将の大きな声が飛んできた。
「その前に、みんなの賄いの皿ちゃんと洗ってからにするんだよ! いいね!?」
「……はい」
軽く後ろを振り向きながら、呟くように返事を返し、歩き始める。
すると後ろで女将が憎たらしく呟いた。
「ったく愛想のない!」
その辛辣な言葉を受けながら、お時は調理場へ向かった。
自分の感情を堪えながら茶碗を洗い終わる頃にはすっかり日は落ちて、
廊下は真っ暗になっていた。
なれた手つきで行灯に火を点ける。
客商売のため、濱末屋では客室には菜種油の行灯・灯台を置いているが、
従業員にはそれを使う事を許されていないため、
鰯の油で作った安い魚油の行灯を使っている。
魚臭い、ひどい臭いが漂ってくる。
少女ことお時は、鼻をつまんで調理場を出た。
暗い廊下を行灯の弱い光を頼りに進む。
ついた先は部屋とは呼べない掃除用具入れのような狭い押入れだった。
押入れは、階段の下に隠し部屋のようにしてついている。
その戸をガラリと音を立てて開けると、押入れは二段になっていて、
上の段にはお時の着替えの着物が置いてあったが、他には何もなかった。
正確に言えば、置けるスペースがなかった。
下の段には布団がひいてあって、その布団も入りきらず端が少し折り曲げられていた。
その上におにぎりが四つとたくあんが添えて置いてあった。
それがお時の今日の夕飯だ。
「ふう」
ため息をひとつ吐いて、布団の上にボス! っと座ると、
厚手の掛け布団に包まる。
春が来たとはいえ、まだまだ夜は寒い。
お時は鼻をズズッとすすった。
そして行灯の火を消して戸を閉めた。
暗くて何も見えなくなるうえ、寒さもやってくるが、
狭い押入れの中ではすぐに魚油の臭いが充満して気持ちが悪くなってしまう。
お時は手探りでおにぎりを掴んでほおばった。
途端にぽつりと雫が頬を伝った。それを合図に、大粒の涙がせきを切ったようにあふれ出す。
「うう……ふっ……ぐっ」
声が漏れないように、おにぎりを口の中でいっぱいにし、そのまま横になって、もぐもぐと口を動かすうちに、泣き疲れて眠りについてしまった。