くれむつの恋
 ……

 お時が濱茉屋に奉公にきたのは、ちょうど三年前、お時が七歳の頃だった。
 辺りが春めいて花が咲き始める頃、お時は大阪にいた。

 お時の家はいわゆる大店だった。
 主に髪飾りを扱っていて、美麗な品が多いと評判の店だった。

 その日、お時は初めて父親から頼まれごとをした。
 手の空く者がいなかったため、お時はかんざしをお客に届けに行ったのだ。
 道中でこっそりと覗いた手ぬぐいの中には、
 綺麗な丸い琥珀のついたかんざしが入っていた。
 お時は密かに高揚した。

 かんざしの届け先のお客は、綺麗な女の人だった。
 才色兼備と言っても過言ではなく、
 届けられたかんざしを嬉しそうに髪に挿した。

 誰かからの贈り物だったのだろう。
 女性は誇らしげに屋敷の中へと入っていった。

 その姿を見て、お時は何だか自分まで誇らしく感じられた。
 女性が喜んでくれたから、それももっともだが、美しい物を見て、
 美しいと言ってもらえて、喜んでもらえて、女性が輝く。

 そんな商売を、将来は自分が継ぐのだと思うと、
 お時はたまらなく誇らしかったのだ。

 躍る胸を弾ませながら、お時は家路についた。
 日が沈み出し、青い空が色を移す頃、お時は愕然とした。

 実家が燃えていた。

 赤々とした炎が家飲み込んでいた。
 辺りは騒然とし、逃げ出す者、火を消すために家を壊そうとする者、
 不安そうに炎を見つめる野次馬。

 その野次馬の群れの中に、お時の姿があった。
 その場を一歩も動けなかった。

 恐怖もあったが、ただ、心が停止する方が大きかった。
 お時には何が起きているのか考える事が出来なかったのだ。
 あまりにも悲惨で。

 我に返った頃には、すでに鎮火が終わっていた。
 倒壊され、真っ黒な墨になった木材があらわになっている。
 お時はそこで初めて口を開いた。

「……お父さんと、お母さんは?」

 辺りを見回すと、見慣れた顔が泣き崩れていた。
 奉公できていた男の子だった。

 お時より数年年上の彼は、同じく働きにきていた女性と抱き合って涙を流していた。
 お時はよろよろと二人に近寄って、話を聞いた。

 どうやら出火は、夕飯作り中のお油跳ねから起こった事だったらしい。
 少年は泣き崩れていて、話が聞けなかったが、女性が言うには、
 気がついたら火の手がまわっていて、逃げ出すのがやっとだったらしい。

 女性が言うには、お時の母親は炎にまかれ、
 それを助けに、お時の父親は炎に飛び込んだのだという。

 お時は呆然と黒こげになった家を見た。
 そこには到底家とは呼べない残骸があるだけだ。

 これからどうすれば良いのか、と女性は嘆いたが、それはお時にとっても同じだった。
 両親が死に、誇らしかった家がなくなり、お時はこれからどうすれば良いのだろうか。

 泣き出したいのに、涙も出なかった。
 隣でわんわんと泣き叫ぶ少年と、密かに涙を流す女性を、うらやましいとさえ思った。

 それからどれくらい時が過ぎただろうか、
 しばらくしてお時の前に一人の男が現われた。

 その男は初老で、丸顔に、少々恰幅の良い体系の男だった。
 その男は、すでに泣き止んでいた少年と女性とお時に声をかけた。

 男は、孤児を預かる施設を持っており、
 里親や、奉公先を世話してくれるのだと言った。

 女性はすでに子供という年齢ではなかったため、
 一時的に面倒は見るが、後は自分で何とかしてくれと言われたと、
 後にお時に語った。
 ともあれ、お時と少年と女性は、男について行った。

 案内された先は長屋であった。
 男は長屋を持っていた。

 その長屋を施設とし、孤児を住まわせ、里親や奉公に渡すのだという。
 これが商売なのかと聞いたら、困った顔で男は告げた。

「商いやあらへん。私は長屋を他にも持っとる、
 そこはちゃんと人に貸しとってな。
 だから商いはそっちや。これは……何て言うかな、善意というものなんかな」

 男は恥ずかしそうに口をつぐんだ。
 善意と口に出すのが、はばかれたような気がしたのだろうか。

 長屋には、お時達の他には誰もいなかった。
 今は孤児がお時達の他にはいないのだろう。
 そうしてしばらく、お時はこの長屋にお世話になる事となった。

 ……

 一番最初に出て行ったのは女性だった。
 女性は実家に戻ると言い、火事から一週間で長屋を出て行った。

 この一週間で、女性はお時にも少年にも優しく接してくれた。まるで姉のように。
 家があった時は、女性はせわしなく働き、お時と会話をしてもあいさつ程度だったが、女性は本来、世話好きの人間だったのだなとお時は思った。

 一週間でお時も少年も女性に良くなついた。
 頼れる大人は、もうこの女性しかいなかったのだから、
 当然と言えば当然であったのかも知れない。

 初老の男、名を助六と言ったが、助六とはまだ日も浅く、たいした会話もなかった。
 助六は長屋に来るたびにお時達に話しかけたが、お時は中々なつけなかった。

 そんな中で、頼れる女性がいなくなってしまう。
 お時は心底不安に駆られたが、行くという者を止める手段がない。
 少年は女性に行かないでと泣きついたが、
 お時は部屋の隅で女性に会わないようにした。

 そうしなければ、お時も少年と同じようにしてしまう自信があったのだ。
 そうしてしまっては女性を困らせるだけだという思いが強かった。
 お時はこの女性が好きだったので、嫌われたくはなかったのだ。
 そうして女性は旅立って行った。


 次に長屋を出て行ったのは、少年だった。
 女性が出て行ってから一週間後の事だった。

 少年は、天涯孤独の身というわけではなかった。
 実家があり、奉公に出ていただけだったが、実家に帰れないわけがあった。

 実家は農家だったが、家族が多く、裕福とは言えなかった。
 今更帰ってもおそらく食い扶持はなかっただろう。

 なので、少年には告げられなかった事実だが、火事の後に助六が出した手紙にも、少年の引き取りは拒否とされている返事が返されていた。

 なので助六は新たな奉公先を探し、そこに少年は行く事となった。
 少年は少し寂しそうだったが、やる気あふれる表情で長屋を出て行った。
 元々、幼い頃から奉公に出ていたが故に、泣き虫な点を除けば、
 精神的には強い子だったのかも知れない。


 一番最後がお時だった。
 火事から一ヶ月が経っていた。
 ようやく助六にもなついてきた頃、奉公先が決まったのだ。
 里親ではなく、奉公先だった。

 そこは大阪から随分と離れたところだった。
 関西から、関東への移動。

 どうしてそんなに離れた場所に行かなければならないのかと、お時は困惑した。
 困惑して駄々をこねたくなったが、助六が苦労して奉公先や里親を探していたのは何となしにお時は感じていた。
 だからかお時は浮かない顔ながらも、了承した。

 それが、濱茉屋だった。
 濱茉屋の主人と助六とは懇意の中であった。

 濱茉屋の主人、大吉は大阪で料理の修業をした後、武者修行として関東へと旅立ち、当時の濱茉屋主人に気に入られ、板前となり、年の離れた若い女将と結婚した。

 六助とは大阪時代に知り合った友人であった。
 友人の頼みを大吉は快く受け入れてくれた。

 大吉の元でなら、お時も厳しいながらも大事にされ、日々をすごすだろう。
 助六はそう考えたのだ。

 もちろん、子供がいなかった大吉も、
 自分の子供として大事に育てようと思っていたのだ。

 ところが、お時が濱茉屋へとたどり着く前に、大吉は急死してしまった。
 元々、お時を奉公として迎え入れ、
 果ては養子にしようと考えていた大吉に対し、女将はあまり乗り気ではなかった。むしろ邪険に思っていた。

 女将は年の離れた大吉を好きにはなれなかった。
 元々父親が決めた相手だ。しかし、結婚してしまったからにはしょうがない、
 家のために子供を産もうと思っていた。

 子供が出来れば、大吉への愛が生まれるとどこかで考えていたのだ。
 しかし、それが叶う事はなかった。

 どちらに問題があったのかは分からないが、女将は自分には問題はないと考えていた。自分は三十代前半とはいえ、まだまだ子供は産める。

 旦那が死んだのなら、再婚すれば良いのだ。
 なのに、どうして養子をとらねばならないのか。
 濱茉屋は、自分の家なのに。自分は女将であるのに――。

 そうしたプライドが女将を意地悪く変貌させた。
 故に、お時が濱茉屋についた頃、助六の思い描く濱茉屋も、
 大吉の思い描いた家族も、そこには存在しなかった。
 お時に待っていたのは、辛い現実だけだった。

 ……

 三年の間、一切笑いかけても、優しい声をかけてももらえなかったお時に、
 女将が今、猫なで声を出し、笑んでいる。

 お時には到底信じられない事だったが、嬉しい気持ちはどこかにあった。
 女将にやっと、少しだけでも、自分の存在を認められたような気がした。
 しかし同時に戸惑いも大きい。

 女将は新しい奉公先を見つけたと言った。
 お時にとってはそれだけでも心を大きな波が襲う。

 冷たい女将からの開放の嬉しさ、しかし重之助と別れる寂しさ、
 ハコとは会えるのかという思い、新しい場所への不安。
 それらと葛藤していると、女将は笑みを止めずに説明した。

「新しい奉公先はうちと同じ旅籠を営んでいるところだよ。
 やる事はさして変わりはないさ。
 皿洗いに、お膳出し、掃除もするかも知れないが、
 まあ、うちではやっていた事だろ? 
 あんたなら大丈夫さ。奉公先もここからそう遠くはないしね」

 お時がまだ戸惑いを隠せないでいると、
 女将の目がかっと開き、険しい表情へと変わった。口調がきつくなる。

「いいね?」
「……はい」

 半ば強引に頷かせられたが、お時にとっても悪い話ではないように思えた。
 重之助と会えなくなるのは寂しかったが、
 元々朝起こしてくれる以外に重之助との接触はなかった。

 重之助は優しいが、無骨で無口な男であった。
 お時もまた積極的に重之助に話しかける事はなかった。
 お時は人見知りなのだ。

 女将はお時の返事を聞いて満足そうに去って行った。
 あの女将と離れられるなら、重之助と離れるのも仕方がないかも知れない。
 新しい奉公先では楽しく働く事が出来るかも知れないと、お時は考えた。
 そう考えると、お時の胸は自然と軽くなるのだった。

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