くれむつの恋
4鐘
この三日は心軽やかに過ごした。
重之助と会った時は寂しさが過ぎったが、女将の小言も受け流すことが出来た。
女将の話によると、新しい奉公先は、この町にあるらしい。
翌日に新しい奉公先の者が迎えに来てくれると女将は言っていた。
旅籠の名前は教えてもらっていないが、この町にあるのならば、
ハコとも離れずにすむ。
重之助の顔をこっそりと見に来ることも出来るだろう。
お時は仕事を終えると、いつものように丘へと走った。
今日はいじわるな少年達には会わずにすんだ。
草の匂いをかぎながら、鐘が鳴るのを待つと、ゴーン…… と低い音が響いてきた。
「ニャ!」
鐘の音と同時にハコが草むらから顔を出した。
「ハコ!」
お時が嬉しさをいっぱいにして両手を広げると、ハコはお時の膝に駆け寄ってきた。
スリスリとお時の膝や太ももに体をすりつける。
甘えているのだ。
お時はもっと嬉しくなって、ハコを撫で回した。
ハコは仰向けになりながら「やめんか!」と言うようにお時の手を両手で掴む。
爪が出ていたので、お時は少し痛かったが、皮が切れる事はなかった。
ハコは手を離し、くるりと素早く立った。
そして、お時の膝の上に乗ってうずくまる。
お時は愛しく、ハコを撫でた。その手は優しさで満ちていた。
ゴーン……。
最後の鐘が鳴る。
ハコはハッとしたように顔を上げ、勢い良くお時の太ももを蹴って、
森の中に走り去って行った。
「あっ」
お時は残念そうに声を上げて、少し間を置いて立ち上がった。
若干肩を落としながら帰路についた。
濱茉屋へと帰ったお時は、
いつものように女将に小言を言われてから皿洗いを終わらせた。
日が暮れて、辺りはもう暗くなっていた。
棚から魚油の行灯を取り出し、灯台のろうそくの火から火種をもらって行灯に火を灯す。
灯台の火をふっと吹き消そうとした時だった。
「お時ちゃん」
調理場の戸が開いて、お時を呼ぶものが現われた。与平だ。
「与平さん」
お時は首をかしげた。何の用だろうか? と。
すると、与平は静かに戸を閉めた。
いつものようにニコリと笑顔が張り付いている。
「お時ちゃん、知ってるかい?」
突然の問いかけに、お時はさらに首を傾げる。
怪訝な様子のお時に、与平はさらに続けた。
「お時ちゃんが明日行く旅籠なんだけどね、女将から説明されているのかい?」
「……説明?」
何のだろうか? と、お時は考えた。業務内容の事だろうか。
「仕事の内容は、ここと変わらないと言われました」
「それだけ?」
「はい……」
神妙な顔で訊く与平に、お時はますます怪訝に思う。すると、与平の細い目が開かれた。
「飯盛旅籠だよ」
静かに、どこか面白がるようにして発音されたその言葉に、お時は唖然とした。
〝飯盛旅籠〟 濱茉屋のように、旅人を泊め、食事を出す旅籠は平旅籠と呼ばれる。その一方で、飯盛旅籠という旅籠もある。
飯盛旅籠とは、旅人を泊め、食事を出し、飯盛女という女を置く旅籠屋の事だ。飯盛女とは、客の夜の相手をする女の事を言う。
「そこに奉公に行くという事は……解るよね?」
探るように、細い目でお時を見る与平の唇の端が、にやりと曲がった。
そんな、まさか……。そんな思いがお時の胸を埋める。
動揺を隠せないお時に、与平は容赦なく告げた。
「本当ならキミは、遊女屋に売られたって文句は言えないんだよ。
引き取り手のない、天涯孤独の身の上なのだからね。
良いじゃないか、別に飯盛女くらい。
遊女になって外に出られない生活よりずっと楽だよ」
やる事は同じだしね。と、薄く笑う。
やる事は同じ? 冗談ではない! お時は絶望を通り越して憤慨した。
与平に食って掛かろうと、声を荒げようとした時だ。
お時の肩に与平の大きな手が置かれた。
そしてそのまま、与平は体重を預けてきた。
お時はよろめき、崩れるように倒れる。
その途中で、手にしていた行灯の火が、風圧で消えたのが見えた。
ドン! と強かに背中を打って、お時は床に倒れた。
その瞬間、当然のように、与平がお時の上にかぶさる。
一瞬の出来事にお時の頭は打たれたように真っ白になったが、
一瞬が過ぎたのち、本能的に理解した。
これから、悪いことが起きるのだ、と。
「やめて、ください……」
思わずお時の小さな唇から、恐怖が湧き出た。
「やめて? これから何が起きるか解っているのかい?」
与平は細い目を開いて、口の端を上げた。
その顔には酷薄が張り付いているようだった。
お時が答えられないでいると、
与平は無遠慮に着物の上からお時の小さな胸をまさぐった。
「ひっ」
思わず小さく悲鳴が上がる。
お時の心臓は恐怖で大きく高鳴った。
「お時ちゃんだって、いきなり知らない男を客にとるのは嫌だろう?」
自分を正当化するように、同意を求めようとする与平に、
お時はただ、ガクガクと震える事しかできない。
ふっ、ふっ、と息が上がる。
そんなお時を、与平はさもおかしそうに見ていた。
そしてそのまま、お時の太ももに手をかけようとした時だ。
「たすけてぇえ!」
お時は悲鳴を上げていた。
その声は頼りなく、渇いた喉から発せられたために、かすれてしまって、
思ったより響かなかった。
しかし与平は慌てて、思わずお時の口を塞ぐ。
「このっ!」
与平はお時が助けを呼ぶとは思っていなかったのだろう。
いつものように萎縮して何も出来ず、
せいぜいすすり泣くだけだろうと思っていた。
だからか与平はすっかり狼狽していた。
そしてそれを鎮めようと、お時を殴りつけようとした時だった。
勢いよく戸が開かれ、お時に馬乗りになっている与平が後ろへ吹っ飛ばされた。仰ぎ見ると、そこには重之助の姿があった。
普段表情を変えない男が、怒りをあらわにし、
鬼のような形相で、尻餅をついている与平を睨みつけている。
今にも殴りかかりそうな重之助に与平は言った。
「何ですかい? あんたも女将に言われたんで?」
そうでないことは承知している言い方だった。
しかし、重之助もお時も二の句が告げなかった。
女将に言われた、とはどういう事なのか、と。
「……女将?」
察したように重之助は聞いた。
「頼まれたんですよ。お時も知らないやつといきなりじゃ可愛そうだろうって」
「彼女はまだ子供だぞ!」
恥じた様子のない与平に、重之助は怒鳴りつけた。
「何をバカな。吉原のかむろじゃあるまいし、
お稽古つけて育ててから客をとらせるとでも?
飯盛女ですよ、そんな面倒を誰がしますか」
「そういう事を言っているんじゃない!」
重之助はさらに声を荒げたが、与平に響く事はなかった。
「彼女の処遇に反対なら、女将に直接言いなさいな。
私は頼まれただけでね。そんな鶏がら興味もない」
与平は抑揚のない声でそう言うと、お時を一瞥して去った。
呆然とするお時に、重之助は手を差し伸べる。
一瞬お時は身をすくめて、重之助の手を取った。
「大丈夫だ。俺が、何とかしてやるから」
重之助は意志を固めたように呟いて、お時の髪をそっとなでた。
そのまま重之助は行灯に火を灯し、廊下の暗闇に消えていった。
残されたお時は半ば呆然としながら、倒れた行灯を拾った。
魚油が皿から流れ出て、床が魚臭くなっていた。
気づけば、お時の小さな手も、それと同じ匂いがした。
油が手にかかっていたのだ。
お時は感情を失くしたまま、床を布で拭いて手を洗った。
手を洗っていると、痛みで意識が戻るのを感じた。
どうやら、軽く火傷をしていたらしい。
お時はそのまま行灯に火をつけ、調理場を出た。
火傷した手を水につける気にはなれなかった。
一刻も早く、調理場を出てしまいたかった。
自分の身に何が起きたのか、何が起きてしまうのかを思い出した時、
恐ろしくて恐ろしくて、とてもあの場には留まっていられなかった。
自室に戻り、暗い、狭い、部屋の中で、お時は一晩中震えて過ごした。
目を見開き、瞬きもせずに、
あの男がやってくるのではないかという不安だけを抱えて、
ただ戸を見続けた。
夜が明ける頃、お時は違和感に気がついた。
いつも起こしにきてくれる重之助が来ないのだ。
お時は恐怖を胸に抱いたまま、戸を開けた。
調理場に慎重に赴き、そっと覗いてみたが、誰もいなかった。
重之助は朝食を作る頃になっても、昼になっても、やってこなかった。
お時はその日、与平とも女将とも顔を合わせないようにして過ごしていたが、
どうにも重之助が気になり、女将にそっと聞いてみた。
すると女将はあっさりと、言い放ったのだ。
「重之助? クビにしたよ」
重之助は直談判に行き、職を追われたのだ。
つまりは事実上、お時を助けてくれる者は、誰一人としていなくなってしまった。
(俺が何とかしてやるって、言ったのに!)
重之助に申し訳ない気持ちも、確かにあった。
だが、裏切られたような、最後の希望をたたれたような、
そんな気持ちでいっぱいになった。
これでもう、お時は飯盛旅籠に行くしかないのだ。
お時は絶望した気持ちを抱えたまま、仕事を終えた。
仕事を終えてしまえば、後は新しい奉公先の迎えを待つしかない。
お時は夢中で駆け出した。
そして、あの丘へと向った。
無我夢中で森を抜け、開けた視界が目に飛び込んだ時、お時の中で、
何かが弾けた。
頬をゆっくりと伝う雫。
お時は陰り行く街を見ていた。
ゴーン……。
暫くして、鐘の音が響いた。
暮れ六つだろう。
その鐘の音を合図に草むらから、白い耳がピョコンと飛び出した。
いつもならば、それを嬉しく思うお時も、この時ばかりは感情が湧かなかった。
「ニャ?」
頬を伝う涙を拭おうともしないお時に、ハコは不思議そうに首をかしげた。
その様子を見て、お時に「ふっ」と笑いが漏れた。
そのどこか自嘲めいた、哀しげな笑みに、ハコは近寄る。
「ハコ、あんな、私な……」
ハコに何か言おうとし、お時の顔は崩れた。
そのまま泣き崩れるお時に、ハコは一瞬ビクリとし、遠ざかろうとしたが、止めた。
そのままそこにじっと座り、お時が落ち着くまで、ずっとそばを離れなかった。