くれむつの恋
……
ハコが森の中を走っていると、やかましい声が響いた。
猫の聴覚は人間より鋭く、遠くの音でも聞く事が出来る。
ハコは少し離れた場所にいる、聞きなれた人物の声にそっと近づいた。
藪の中でじっと身を潜める。
そこにいたのは、三人の少年だった。
そう、お時をいじめている少年達だ。
少年達は丘の方へと向っていた。
丘の方角からは、サクサクと草を踏む足音。
聞き覚えのある、優しい音だ。
このまま少年達が進めば、その音の持ち主と出くわすだろう。
ハコは少年達の目の前に、ピョンと飛び出した。
「あ!猫だ!」
一人の少年が叫び、二人の少年がハコに気づいた。そして、恰幅の良い少年が声を荒げた。
「今日こそは捕まえるぞ!」
その声を合図に少年達は楽しそうに走り出した。
ハコは少年達を引き連れるように、脇道に逸れて駆け出した。
数分後、お時は数分前に少年達がいた道を通って街へと入って行った。
罵倒される事も、暴力を振るわれる事もなく……。
……
白い猫、ことハコは、飼い主もいなければ、家族もいない。
完全なる野良猫であった。
三年前に産まれ、生後三ヶ月で親に追い出された。
他の兄弟も一緒だ。
今どこで何をしているかは分からない。
追い出されてから、町へ出て、人間という生き物がいることに驚き、
犬という生き物とケンカし、その鼻っ柱を引っかいてやった。
ハコは暫く町で暮らした。
数年はゴミを拾って食べたり、こっそり魚屋から盗んだり、
人間に愛想を振りまいてご飯を貰ったりしていた。
しかし、敵が現われた。
ハコの縄張りに、体のでかいブチ猫がやってきたのだ。
ハコは戦ったが、結局縄張りを追い出されてしまった。
仕方なく他の縄張りを探す事にしたハコは、森の中へと入っていた。
それが約一ヶ月前の事だ。
ハコは寝床をどこにしようかと歩き回った。
中々気に入る場所が見つからず、ふてくされた気分のまま歩き続けると、
開けた場所へとたどり着いた。
そこには一人の人間がいた。
その人間は、綺麗な黒髪を下ろし、ぼうっと町を見渡していた。
暮れてきたオレンジ色の光に照らされ、
長い黒い髪が、頬を掠めながら、空へふわりと舞った。
幼い姿の女の子。
その姿は儚げで、夕陽の光が瞳に映りきらきら輝いていた。
(ああ、まるで、泣いているみたいだ……)
ハコはそう思った。
そして、強く心を奪われた。
生まれて初めて、餌目当てではなく、人間に近づいてみたいと思ってしまった。
ハコはそろそろと少女に近づいて行った。
少女はハコに気がつくと、花のように可憐に笑った。
その日から、ハコは丘に行くのが日課となった。
森の中に寝床を見つけ、そこを縄張りとした。
もちろんハコの縄張りには、あの丘も入っている。
だが通い始めて四日目で、ハコは驚く光景を目にした。
あの少女が、少年三人にいじめられていたのだ。
何て事をするやつらだ! と、ハコは憤慨したが、止めには入らなかった。
飛び出す前に、少女は少年達から解放されたからだ。
少女は薄っすらと涙を浮かべながら、あの丘へと歩き出した。
ハコはその後を追った。
低い鐘の音が鳴り響き始めるのとほぼ同時に、ハコは少女に追いついた。
少女はハコが姿を現すと、必ず優しく微笑むのだ。
ハコはそれが嬉しくて、何度も見たくて、少女の横に座るのだ。
少女は優しくハコをなでてくれる。
その手は他の人間よりも尊いものに思えた。
今まで人間には、餌を貰うためになでさせてやっていたが、彼女は違う。
自分がなでて欲しいから、なでて貰うのだ。
でも同時に、自分をなでることで、彼女の役に立っているような気がした。
そうしてなでられていると、最後の鐘が鳴った。
鐘の音の余韻が終わらぬ中、ハコの耳はやかましい声を捉えた。
先程少女に罵声を浴びせていた、あの声だった。
その声はどんどんと近づいてくる。
このままではまた、彼女は傷つけられてしまうだろう。
ハコはゆっくりと少女の手から離れた。
残念そうな少女を置いて、森の中へと入って行った。
丘へと続く道を、意気揚々と歩いている少年三人を見つけたハコは、
彼らの前へと飛び出した。
少年達は声を上げて、猫だ! と叫んだ。
そして、ハコに触ろうと一人の少年が手を伸ばした途端、
ハコは少年の手を引っ掻いた。
少年は痛みに顔を歪める。
ハコはそれを見て、挑発するような目つきをした。
手を掻かれた少年は怒りをあらわにし、ハコを追いかけ始めた。
しかし、素早く駆ける事の出来るハコに、少年達が追いつく事はなかった。
こうして、ハコは少女こと、お時を陰ながら守る事にしたのだ。
時には間に合わず、お時がいじめられてしまう事もあったが、
お時が家路に着く時は完璧に守れていたように思う。
本当ならば、ハコはもっとお時と一緒にいたかったのだが、
少年達がきてしまうのだからしょうがない。
唯一、ハコが名前を貰った日は、少年達は丘へとやってこようとはしなかった。
なので、ハコはお時と長く時間を共に出来たのだった。
あんなに嬉しかった日は、ハコには今までなかった。
お時に名前をつけてもらった。
ハコにはそれまで名前はなかった。
餌を貰う時でも猫、とか、ニャーとかしか呼ばれてはいなかった。
初めハコと聞いた時、お時はセンスがないなとハコは思った。
鳩は他の鳥よりもおっとりというか、のんびりしている気がする。
ハコはよく鳩を獲って食べていた。
他の鳥は中々捕まらなかったが、鳩はわりと簡単に捕まえる事ができた。
よりによって、のろまな鳩の名前から採るのか、と、ハコは思ったが、
そんな気持ちはすぐに消えた。
名前を呼ばれるたびに、自分を認識してもらえたような、嬉しい気持ちに包まれた。
自分に名前をつけてくれた、あの優しい少女のために、
明日もまた、あの丘へと行こう。
ハコはそう、心に決めた。
……
ハコが森の中を走っていると、やかましい声が響いた。
猫の聴覚は人間より鋭く、遠くの音でも聞く事が出来る。
ハコは少し離れた場所にいる、聞きなれた人物の声にそっと近づいた。
藪の中でじっと身を潜める。
そこにいたのは、三人の少年だった。
そう、お時をいじめている少年達だ。
少年達は丘の方へと向っていた。
丘の方角からは、サクサクと草を踏む足音。
聞き覚えのある、優しい音だ。
このまま少年達が進めば、その音の持ち主と出くわすだろう。
ハコは少年達の目の前に、ピョンと飛び出した。
「あ!猫だ!」
一人の少年が叫び、二人の少年がハコに気づいた。そして、恰幅の良い少年が声を荒げた。
「今日こそは捕まえるぞ!」
その声を合図に少年達は楽しそうに走り出した。
ハコは少年達を引き連れるように、脇道に逸れて駆け出した。
数分後、お時は数分前に少年達がいた道を通って街へと入って行った。
罵倒される事も、暴力を振るわれる事もなく……。
……
白い猫、ことハコは、飼い主もいなければ、家族もいない。
完全なる野良猫であった。
三年前に産まれ、生後三ヶ月で親に追い出された。
他の兄弟も一緒だ。
今どこで何をしているかは分からない。
追い出されてから、町へ出て、人間という生き物がいることに驚き、
犬という生き物とケンカし、その鼻っ柱を引っかいてやった。
ハコは暫く町で暮らした。
数年はゴミを拾って食べたり、こっそり魚屋から盗んだり、
人間に愛想を振りまいてご飯を貰ったりしていた。
しかし、敵が現われた。
ハコの縄張りに、体のでかいブチ猫がやってきたのだ。
ハコは戦ったが、結局縄張りを追い出されてしまった。
仕方なく他の縄張りを探す事にしたハコは、森の中へと入っていた。
それが約一ヶ月前の事だ。
ハコは寝床をどこにしようかと歩き回った。
中々気に入る場所が見つからず、ふてくされた気分のまま歩き続けると、
開けた場所へとたどり着いた。
そこには一人の人間がいた。
その人間は、綺麗な黒髪を下ろし、ぼうっと町を見渡していた。
暮れてきたオレンジ色の光に照らされ、
長い黒い髪が、頬を掠めながら、空へふわりと舞った。
幼い姿の女の子。
その姿は儚げで、夕陽の光が瞳に映りきらきら輝いていた。
(ああ、まるで、泣いているみたいだ……)
ハコはそう思った。
そして、強く心を奪われた。
生まれて初めて、餌目当てではなく、人間に近づいてみたいと思ってしまった。
ハコはそろそろと少女に近づいて行った。
少女はハコに気がつくと、花のように可憐に笑った。
その日から、ハコは丘に行くのが日課となった。
森の中に寝床を見つけ、そこを縄張りとした。
もちろんハコの縄張りには、あの丘も入っている。
だが通い始めて四日目で、ハコは驚く光景を目にした。
あの少女が、少年三人にいじめられていたのだ。
何て事をするやつらだ! と、ハコは憤慨したが、止めには入らなかった。
飛び出す前に、少女は少年達から解放されたからだ。
少女は薄っすらと涙を浮かべながら、あの丘へと歩き出した。
ハコはその後を追った。
低い鐘の音が鳴り響き始めるのとほぼ同時に、ハコは少女に追いついた。
少女はハコが姿を現すと、必ず優しく微笑むのだ。
ハコはそれが嬉しくて、何度も見たくて、少女の横に座るのだ。
少女は優しくハコをなでてくれる。
その手は他の人間よりも尊いものに思えた。
今まで人間には、餌を貰うためになでさせてやっていたが、彼女は違う。
自分がなでて欲しいから、なでて貰うのだ。
でも同時に、自分をなでることで、彼女の役に立っているような気がした。
そうしてなでられていると、最後の鐘が鳴った。
鐘の音の余韻が終わらぬ中、ハコの耳はやかましい声を捉えた。
先程少女に罵声を浴びせていた、あの声だった。
その声はどんどんと近づいてくる。
このままではまた、彼女は傷つけられてしまうだろう。
ハコはゆっくりと少女の手から離れた。
残念そうな少女を置いて、森の中へと入って行った。
丘へと続く道を、意気揚々と歩いている少年三人を見つけたハコは、
彼らの前へと飛び出した。
少年達は声を上げて、猫だ! と叫んだ。
そして、ハコに触ろうと一人の少年が手を伸ばした途端、
ハコは少年の手を引っ掻いた。
少年は痛みに顔を歪める。
ハコはそれを見て、挑発するような目つきをした。
手を掻かれた少年は怒りをあらわにし、ハコを追いかけ始めた。
しかし、素早く駆ける事の出来るハコに、少年達が追いつく事はなかった。
こうして、ハコは少女こと、お時を陰ながら守る事にしたのだ。
時には間に合わず、お時がいじめられてしまう事もあったが、
お時が家路に着く時は完璧に守れていたように思う。
本当ならば、ハコはもっとお時と一緒にいたかったのだが、
少年達がきてしまうのだからしょうがない。
唯一、ハコが名前を貰った日は、少年達は丘へとやってこようとはしなかった。
なので、ハコはお時と長く時間を共に出来たのだった。
あんなに嬉しかった日は、ハコには今までなかった。
お時に名前をつけてもらった。
ハコにはそれまで名前はなかった。
餌を貰う時でも猫、とか、ニャーとかしか呼ばれてはいなかった。
初めハコと聞いた時、お時はセンスがないなとハコは思った。
鳩は他の鳥よりもおっとりというか、のんびりしている気がする。
ハコはよく鳩を獲って食べていた。
他の鳥は中々捕まらなかったが、鳩はわりと簡単に捕まえる事ができた。
よりによって、のろまな鳩の名前から採るのか、と、ハコは思ったが、
そんな気持ちはすぐに消えた。
名前を呼ばれるたびに、自分を認識してもらえたような、嬉しい気持ちに包まれた。
自分に名前をつけてくれた、あの優しい少女のために、
明日もまた、あの丘へと行こう。
ハコはそう、心に決めた。
……