坂道では自転車を降りて

 隣室の奴らも黙ってしまった。嫌な静寂がいつまでも続く。先輩は目を伏せて震えている。椎名が作業に戻った。ヤツにしては賢明な対応だ。先輩はフラリと立ち上がると前室を抜けて出て行ってしまった。椎名が追いかける。また隣室から声が聞こえ始めた。
「まあ、とにかく、神井は凄いし、がんばってもいる。俺は最後まで一緒にやるぞ。」
とってつけたような言い方。こちらに聞かせるために話しているのがバレバレだ。わざとらしい。
「それはもちろんですよ。」
「そういえば、あいつが初めて本書いて来た時、最初に読んだの大野さんだったんじゃないかな。」
「そうだっけ?」

「そうだった。演劇部はもう何年も既成の本しかやってなかったんだ。それを突然、神井が本を書いて来て。でも最初のやつは、今思えば、やっぱりすごかったんだけど、未完成と言うか、時期とか内容にも、いろいろ不都合があって。誰も取り合わないと言うか、真剣に読まなかったんだ。神井はあんなヤツだから、あの頃はちょっと部で浮いた感じがあったんだよ。
 でも大野さんは何か感じたらしくて、読んでみもしないで議論するなとか、チャレンジしないで完成度の高いものを作るより、神井の本をみんなで作り上げてみたくないのかとか、言いだして、ちんたらやってた役者の先輩に喧嘩売ってんのかって発言でさ。俺達、当時一年だったわけだし、裏にもすげー女子がいるなぁって思ったよ。
 でもそれで、俺も思い直したんだよ。一年だからって遠慮してたらやりたい事できないし、俺だってできるならやってみたい。それに、神井ならいずれ書いちゃうんだろうなって。このまま神井を孤立させてたらもったいないんじゃないかって。結局、その時は流れちゃったし、その後もいろいろ揉めたから、神井は覚えてないかもしれないけど。なんのかんの言っても、お似合いなんだよ。あの2人は。」

 そうだったんだ。神井先輩の最初の脚本を大野先輩が認めた。おそらくそれが2人の始まりだったのだ。彼女はいつも先入観や周りの状況に流されずにモノを見て、素直に感じた事を言う。そこが彼女の良い所であり悪い所でもある。そのときも大野先輩は思った事を素直に言っただけなんだろう。だが、彼女の言葉は神井を励まし、原と言う味方を与えた。それはある意味、運命の瞬間だったのだ。彼等とこの部の。

 がやがやと他の部員が戻って来た。しばらくして大野先輩と椎名も戻って来た。自販機まで散歩したらしい。俺にも飲み物を買って来てくれた。今日はもうすぐ、解散になるだろう。図面はまだまだあるが、これ以上地層を掘り返しても、あまり意味はななそうだった。外も暗くなり始めているし、電灯のない倉庫でこれ以上粘る必要もない。俺は一年前の彼等を目の奥に想像しながら、窓から見える明るくなり始めた月を眺めた。

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