坂道では自転車を降りて

 神井先輩は鞄を手に取り出て行こうとして、また戻って来た。何か考えて、ドアを睨んでは、また考えて、自分が倒した机を眺めた。多分、頭の中がぐるぐるしてるんだろう。当然だ。大きく息を吐いた。
「なんなんだよ。あいつは。どうすんだよ、もう。」
 神井先輩の声は怒っていると同時に、泣いているような気がした。俺は気の毒な先輩をただぼんやり見ながら大野先輩の事を考えた。写真部の部室の奥、赤い窓の下で床に倒れていた先輩。

 大野先輩の身体は普段の印象からは全く想像できないくらい華奢で、柔らかくて、いい匂いがする。きっと女の子は誰でもそうなんだろうと思う。部室の中を無防備に動き回る身体は、時々俺達の身体にぶつかったり、かすったりした。俺の書いた図面を後ろから覗き込んで来た時に、肩に置かれた手の感触に、俺の首筋に触れる柔らかい髪に、耳のすぐ横で聞こえる声に、最後まで慣れることはなかった。椎名が本気で追いかけた俺達の偶像。
 彼女がこの男に抱き締められるのを間近で見たとき、ギリギリと痛んだ胸の内を認めなくなかった。部室で倒れた彼女を抱きとめた時のことを、何度も夢に見たのは何故なのか、考えたくなかった。

 だって、俺が気付いた時には既に先輩は神井理士のものだったし、大野多恵が欲しいとか、考えもしなかった。あの頃はただ、毎日この男に振り回されて無茶ばかりしてしている彼女に腹が立って仕方なかった。でも、それももう半年以上も前の話だ。この男が俺に頭を下げたとき、ちょっとこいつを見直した。考えてみればこの男も彼女もただの高校生で、2人とも恋愛初心者だったというだけの話だ。

 倒れた身体を抱き起こすとき、乱れたシャツの襟元から白い肌と黒い下着が見えた。先輩らしくない色に少し驚いて、神井の趣味なのかなとか、どうでも良いことをチラと思った。姉さんは男と別れると新しい服を買い、新しい男と付き合い始めると新しい下着を買う。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
< 638 / 874 >

この作品をシェア

pagetop