きみの幸せを願ってる
きみは今日の授業も突っ伏していた。
寝てないのは知ってる。
嬉し涙が頬を濡らして、顔を上げられないのだ。
90分突っ伏したきみの代わりに、俺はノートを書いた。
授業が終わっても、きみはしばらく顔を上げなかったから、俺は先に教室を出た。
きみも俺も、次の授業は空きコマだったから、俺は迷わず、八号館の6階に向かった。
八号館の6階は、人が通らない。
そこの講義室は、教授の控室だが、階が高すぎるのと、節電のせいで、少し薄暗いから、誰も使ってはいない。
だから、俺は一人になりたいとき、いつもそこに行く。
きみも後から来る自信があった。
一人になりたいとき、きみもそこに来ていたから。
そして、俺もまた同じ理由でそこを訪れていることをきみは知っていたから。
八号館の6階。
廊下の窓から見える空は蒼くて、広い。
「工藤くん」
背中から、聞こえる声。
ほら、やっぱり。
振り返ると、きみは自ら俺の胸に飛び込んできた。
「工藤くん。好きです」
改めて耳でその言葉を聞くと、何かくすぐったい。
だけど嬉しくて、俺はその小さな身体を抱きしめ返した。
「俺も松下さんが好きです」
俺の腕の中で、顔を上げたきみは、瞳が真っ赤で。
その目に負けないくらい、顔も真っ赤で。
「さっき、わざと"迷惑"ってところで、書くのやめたよね?」
怒ったような声で、きみはそう訊いてきた。
「バレてたか」
「ひどい。私、本気で泣きそうになったのに」
「ちょっと、松下さんを困らせたくて」
「うわ、工藤くんって、意外とドSだったんだ?」
唇を尖らせて、拗ねた仕草をするきみの耳に顔を近づけた。
「ごめん。許して。り、ん」
名前で呼ぶと、きみは小さく震えて、悔しそうに、俺を睨んだ。
「名前で呼ぶなんて、ずるいよ。てる」
今度は俺が震える番だった。
名前で初めて呼ばれた。
てる、って。
俺は自ら名乗ったことなどないのに、きみは覚えてくれていた。
俺の名前が『工藤輝』だってこと。
誰も『てる』なんて呼ばないから、それだけで、なぜか特別で。新鮮で。
「凛。俺と付き合ってください」
「もちろん」
頷くきみの頬に手のひらを当てる。
その俺の手のひらの温もりを感じるように、きみは手のひらを重ねてきた。
「ずっと好きだった。入学式の帰り際で、出会ったときから」
懐かしそうに微笑んだきみは、そう呟いた。
「入学式?」
「てるは、駅で落とした切符を拾ってくれて、私に渡してくれたじゃない」
「あ、ああ!」
思い出した。
入学式のあの日、帰りの駅で目の前のスーツ姿の女子が、切符を落とした。
ぶっきらぼうに俺は、『ん、これ、落とした』と言って、その人に渡した。
あの時のスーツの女子はきみだったんだ。
「ぶっきらぼうだったけど、一目惚れだったの。私、一瞬のこと過ぎて、ありがとうも言えなかった」
きみは居住まいを整えて、俺を見上げた。
「あのときはありがとう。あと、それから、私のこと、好きになってくれてありがとう」
俺は笑った。
無愛想な俺が珍しく。
「こちらこそ、あの日、切符を落としてくれてありがとう」
きみは、プッと噴き出した。
「ねぇ、私、とても幸せ」
「知ってる。見たらわかるよ」
瞳を閉じたきみは、本当に綺麗で。
幸せなんだな、って思った。
「キス、してもいい?」
「律儀に訊くんだね。問答無用でも嫌がらないよ?」
微笑むきみの唇に、自分のそれをそっと押し付ける。
幸せで、仕方なかったよ。
こんな日が永遠に続けばよかったのに。