壁の中の手紙
 もちろん表情などはない。しかし視線を感じた。
 それからずいぶんと小さな声、生前と変わらぬ母の声を私は認識した。
「……ごめんね」
 ふいっと人影は掻き消えて、その夜はそれっきりだったのだが、最後の言葉は日中も私の心の隅にずっと引っかかったままだった。
(あれは、何に対する謝罪だったのだろう?)
 私に対する謝罪なのだとしたら……私の気持ちを裏切ったことに対する謝罪なのだとしたら……
 母は優しい人で、良く童謡を歌って聞かせてくれた。幼稚園への送り迎え、買い物のとき、私が退屈でぶらぶらしているときなど、手をしっかりとつないで優しい微笑みを私に向けていろんな歌を聞かせてくれたものだ。
 あの慈悲深いしぐさの合間にも、たった一葉の恋文のことを考えていたのだとしたら……
 難しい顔でソファに座っている私を心配したのか、洗濯カゴを抱えた妻が足を止めた。
「ねえ、あの手紙を燃やして、それでなかったことにしてしまいなさいよ」
「そんなことはできない」
「どうして?」
「悔しいからだ」
 素直な私の言葉に、妻はふっと笑みをこぼして隣に座ってくれた。
「ねえ、女は欲張りなの、知ってる?」
「なんだよ、唐突に」
「いいから黙って聞いて。私もあなたと結婚する前に付き合っていた人がいてね、今でもその人のことを思い出すことがあるわよ」
「お前、まさか!」
「やあねえ、怖い顔して。別にその人とどうこうなろうとか言うんじゃないわよ。ただ、過去に幸せな思い出があったなって、そんな風に懐かしくなるだけよ」
「幸せ、か」
「そう、幸せ。ただし過去のね。私の幸せはいま、ここにあるんだから、思い出すくらいでちょうどいい……そうね、時々眺めるぐらいしか使い道がない宝物みたいなものだわ」
「で、それのどこが『女は欲張り』につながるんだ?」
「つまりね、古い宝物も、いま大事な宝物も、両方とも持っていたいのよ、女っていうのは。ね、欲張りでしょ?」
「ああ、言いたいことはなんとなくわかった」
 私はソファに身を投げて天井を見上げてうめいた。
「理屈はわかっていても気持ちがついていかないことがある。それが男っていうものなんだ」
「ばかねえ、それは男も女も同じよ」
 妻はそんな私にそっと身を寄せてくれて、それっきり黙りこんで……長い間そうしていてくれた。
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