壁の中の手紙
 それから数日、トントン、ドンドンと、幽霊が壁を叩く音は激しくなるばかりだった。
 焦っているかのように日に日に早く、強く。
 その音に悲壮感を感じるようになったころ、私は一種のあきらめに似た気持ちを抱くようになった。
「わかったよ、母さん……」
 母にとっては幽霊になってまで執着するほどに大事な恋文だったのだ。息子である私の安眠よりも大事な……
「母さんも女だったということか」
 もちろん母が不貞を働いたとは思っていない。恋文の内容にも興味はない。
 それでも、母が私をいつくしみ育ててくれた数十年の裏に不満を隠していたのかと、なにか嫌なことがあったときにすがるものは私や父ではなくて一葉の書状だったのかと、それが悔しくて涙が流れた。
 それでも私は、母に手紙を返す準備を整えて夜を待った。
 手元にはあの手紙と、灰皿と、ライター。夜が少し深まったころ、それはやはり現れて壁を叩きはじめた。
 私は少し震えながら声を出した。
「母さん、手紙はここにあるよ」
 怖いわけではない。寒いわけでもない。自分がなぜそんなに震えているのか、理由がわからない。それでも私は、奥歯をかみ締めなくてはまっすぐ座ってもいられないほどの震えをとめることができずにいた。
 がたがたと震える手でライターをつかむ。何度か取り落としそうになりながら、やっとの思いで。
 人影はやはり大きく体を揺すって、振り向いたのだと私は認識した。
「これもちゃんと天国へ送ってあげるよ。だから、安心して、母さんも逝っていいんだよ」
 シュッと音を立ててライターに火をともす。その小さな火を吹き消さないように気をつけながら顔の前にかざし、ゆれている炎の真ん中めがけて封筒の角をたらす……
 一連の動作のウチに、いつの間にか私の体の震えはとまっていた。
 代わりにぼやっと視界を覆う水。
(ああ、そうか、わたしは泣きたかったのか)
 どんな形であれこの世にもう一度現れた母、それを自分の手であの世に送り返すという行為がたまらなく哀しい。
「なんで……でてきちゃったんだよ、母さん」
 燃え上がった封筒を灰皿の中に落としこみながら、私は間違いなく号泣していた。視界は涙でふさがれ、もはや霞のような人影がどうなったかさえわからない。
 そんな中で、ふわりと、母のぬくもりを感じた。
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