王女・ヴェロニカ
「巡回はさきほど済まされたばかりです」
「外へ行きたい!」
 そう叫びながら羽ペンを勢いよく振ったため、インクが周囲に飛び散った。
「あ、大変! 綺麗にしなくちゃ」
 グーレースが上着のポケットからハンカチをだしてインクを拭う傍で、ヴェロニカはドレスの裾でグイッと乱暴にインクを拭った。
「ヴェロニカさま! なんというなさり様!」
「いいじゃない、机も床も綺麗になったわ」
「ドレスが汚れてしまいましたぞ!」
「え、大丈夫よ、誰も裾なんて見てないでしょ。どうせいつも引き摺ってるんだもの」
「そういう問題では……」
 その一連のやり取りを見ていた父王は盛大なため息をついて思わず天井を仰いだ。
「……ヴェロニカ……お前が結婚できない理由が見えてきた気がしたよ……」
「あら、父様、失礼なことを言わないでください」
「どこが失礼なのだ」
「結婚できないのではなくて、結婚しても良いと思える男が現れないだけです。わたしより強くて賢い、というのが最低条件です」
「グーレース……ヴェロニカより強い男など、どこにいるのだろうか……」
 ううむ……いやはや……と、グーレースも歯切れが悪い。
「ヴェロニカ、我らの伝手には頼るな。自力で探せ!」
 最初からそのつもりですのでご心配なく、とヴェロニカは艶やかに笑ったが、父とグーレースは、どんよりとした顔つきで溜息をついた。

 しかし、この時、二人の脳裏に描かれた人物が一人だけいた。
 だがその男は王宮勤めに嫌気がさしたとかで、数年前、ふらりとどこかへ行ってしまった。
 風の噂によると、キャラバンを率いて大陸を移動しているとか、貿易で大儲けしたとか、義賊になったとか海賊の頭領だとか……。
 とにかく、大人しくしてはいないらしい。
「あの男なら、顔も良いし血筋も良いし頭も良いし、剣の腕も申し分ない。王にもなれる男、ヴェロニカと馬が合ったに違いないが……」
「……この国で最も結婚に向かない男でしょうなぁ……」
 きっと、王女を嫁に貰ってくれと言い終らぬうちに、行方を晦ますに違いない。
「ああ……せめてもう少し、ヴェロニカが淑やかであったなら違ったであろうに……なぁ、グーレース」
「はい、とっくに王はお孫様をその腕に抱いておるでしょうな」
 話を聞いていたヴェロニカが、にやり、と笑った。
「でも領土はここまで拡大していないわよ、父様」
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