ボロスとピヨのてんわやな日常
襲いかかってきた黒犬を前に、俺は逃げを迷わず選択した。
当たり前だ。こんな実態のないものを相手にしたって、敵うわけがない。逃げるが勝ちの時だってあるのだ。すぐにピヨと親父、千代丸に指示しようと口を開く。
――が、俺以外の三匹の考えは違っていた。見た時には既に、正面から一直線に黒い犬に突っ込んでいくピヨの姿があった。
「ピヨッピヨッピヨッピヨッピヨッピヨッ!」
激突直前に飛び上がったピヨは、必殺の六連コンボを黒犬の額に向かって繰り出す。
ほぼ同時に千代丸も攻撃態勢に入る。二本足で直立すると、何かを黒犬に向かって投げつけていた。
千代丸が投げたのはふたつの手裏剣だ。左右ひとつずつ投げられた手裏剣は弧を描き、両側面から黒犬に向かっていく。
正面からはピヨの六連コンボ。両側面からは千代丸の手裏剣。黒犬に大ダメージと僅かな期待をしたが、やはり予想通りピヨも手裏剣も黒犬をすり抜けていた。
「ピヨッピッ?」
ピヨは幽霊というものを知らない。そのため、攻撃が通らなかったのは予想外だったのだろう。すり抜けた直後に黒犬のほうに向き直ったが、次の攻撃に移るべきか迷っていた。
千代丸も「こいつは一体、何ですか」と言っていたので、幽霊を知らないのだろう。ピヨと同じく、金縛りに遭ったように動きをとめていた。
黒犬はというと、親父に視線を向けている。やはり霊体同士。引きつけられるものがあるのだ。黒犬の赤い目は不気味に光り、まるで火の玉のように揺らいでいた。
体も原形をとどめておらず、時折拡散する様子を物に喩えるなら黒い霧だ。そんな黒犬が呼吸すると、口から紫色の霊気が出て行き場を失いつつ虚空をさまよう。
こいつは、完全にヤバい奴だ。話し合いも通用しないだろう。困惑しつつも、まだピヨと千代丸は戦闘態勢をくずさない。しかし、親父は同じ霊体。力の差を把握したのだろう。顔を強張らせ、ただ全身を小刻みに震わせていた。
「ボロスの師匠! どうか、拙者にご助言を。こいつの倒しかたを教えてくだされ」
逃げようと思った時だ。千代丸が俺にアドバイスを求めてきた。しかも、倒しかたって。どう考えても、こんな化け物を倒す方法なんて考えられない。
と思ったら、親父が「南無阿弥陀仏」と唱えている。いや、親父まで消えかけてるけど。天から後光のようなものが差してるけど――って、これ昇天しかけてるんじゃないか?
「千代丸よく聞け。人生には出来ないこともあるんだよ。だから……逃げろっ!」
俺はまずピヨをくわえて背に乗せると、続けて親父の首ねっこを引っ張って逃げる。千代丸も、ようやく事の深刻さに気づいたのだろう。指示を聞いてついてきた。
あれが地縛霊なら逃げ切れることができるだろう。しかしもし、浮遊霊だったら? 何処までも追いかけてくるのか? もしかしたら、逃げ場はないのかもしれない。
黒犬は親父を標的と決めたのだろう。追いかけてきて、徐々に距離がつまっていく。
「そういえば、こんな時のために用意していた物が。くらえ化け物、催涙玉!」
追いつかれたら終わりということを千代丸も感じ取ったのだろう。振り向きざま、黒い犬に向かって何かを投げつけた。それは確かに黒犬の前に落ちて赤い煙を出した。しかし、ここで予想通りというか、千代丸ならやりかねない問題が起きた。赤い煙は黒犬に向かってではなく、俺たちのほうに向かってきたのだ。
「うおおっ、風向き逆じゃないか!」
「赤いのはハバネロです。サービスで多く入れときました。いつもより五倍(当社比)です」
「そんなサービスと丁寧な説明はいらん!」
千代丸が言う当社の比率がわからないだけに、あの赤い霧には恐怖を感じる。
立ち止まることは許されない。迫ってくるのは黒犬だけじゃなく、ハバネロ入りの激辛催涙霧だ。背中にはピヨ、昇天しかけている親父。これは絶体絶命というやつじゃないか。
その時だ。突然、俺は体が硬直するのを感じた。これって、もしかして金縛り――。
と、思った途端、前のめりに転んだ。転んだ拍子にピヨが俺の背中から落ちる。羽根をばたつかせているところを見ると、どうやらピヨは金縛りになっていないらしい。
「ピヨ、千代丸と一緒に親父を連れて逃げろ!」
その状況下で俺の口から出た指示は、俺自身が理解できない指示だった。
俺、絶体絶命の時に何を言ってるんだ? ピヨや千代丸に運んでもらえばいいことだろう。追いつかれるかもしれないけど、そうしたら自分は助かるかもしれないじゃないか。
「ピヨッピピピピピヨッ」
ピヨは首を左右に振って「命令を聞くのは嫌だ」と鳴く。いや、ピヨ語は俺にはわからない。動きで何となくわかっただけだ。
「大丈夫だって、こういう危機的状況にはな。主人公の特権が働くもんなんだよ! 伝説の聖剣が出現したり、最強魔法を突如として思い出したり……」
俺自身、こんな誤魔化しでピヨが納得して逃げるとは思ってない。それなのに、必死にピヨを説得しようとしているのは何故だ?
「ピヨッ!」
その時だ。ピヨが高い声で鳴いた。赤い霧が間近に迫ってきたのだ。ハバネロ入りの霧だ。俺ならともかく、ヒナであるピヨが無事にすむとは思えない。
「千代丸! 師匠命令だ。俺を置いて、ピヨと親父を連れて逃げろ」
さすがに師匠命令と言われて千代丸も慌てて行動を起こす。しかし、ピヨは背中の羽根を逆立てて、近づいてきた千代丸を威嚇した。
ピヨが千代丸を威嚇したのは敵と認識したわけではなく、逃げたくないという意思表示だろう。ヒナでもチート能力のあるピヨだ。このまま千代丸と争っていると、共倒れする可能性が高い。
「千代丸!」
目配せすると、千代丸は察したのか親父だけを連れて逃げた。
迫りくる赤い霧からピヨを守ろうと体の下に隠した時、生温かい風が首元にあたった。その風は生温かいだけではなかった。それは数週間経った死肉の臭いがする息だ。
息がかかるほどの距離ということは、もはや逃げ切れる距離ではない。低い唸り声が耳元で聞こえていた。
当たり前だ。こんな実態のないものを相手にしたって、敵うわけがない。逃げるが勝ちの時だってあるのだ。すぐにピヨと親父、千代丸に指示しようと口を開く。
――が、俺以外の三匹の考えは違っていた。見た時には既に、正面から一直線に黒い犬に突っ込んでいくピヨの姿があった。
「ピヨッピヨッピヨッピヨッピヨッピヨッ!」
激突直前に飛び上がったピヨは、必殺の六連コンボを黒犬の額に向かって繰り出す。
ほぼ同時に千代丸も攻撃態勢に入る。二本足で直立すると、何かを黒犬に向かって投げつけていた。
千代丸が投げたのはふたつの手裏剣だ。左右ひとつずつ投げられた手裏剣は弧を描き、両側面から黒犬に向かっていく。
正面からはピヨの六連コンボ。両側面からは千代丸の手裏剣。黒犬に大ダメージと僅かな期待をしたが、やはり予想通りピヨも手裏剣も黒犬をすり抜けていた。
「ピヨッピッ?」
ピヨは幽霊というものを知らない。そのため、攻撃が通らなかったのは予想外だったのだろう。すり抜けた直後に黒犬のほうに向き直ったが、次の攻撃に移るべきか迷っていた。
千代丸も「こいつは一体、何ですか」と言っていたので、幽霊を知らないのだろう。ピヨと同じく、金縛りに遭ったように動きをとめていた。
黒犬はというと、親父に視線を向けている。やはり霊体同士。引きつけられるものがあるのだ。黒犬の赤い目は不気味に光り、まるで火の玉のように揺らいでいた。
体も原形をとどめておらず、時折拡散する様子を物に喩えるなら黒い霧だ。そんな黒犬が呼吸すると、口から紫色の霊気が出て行き場を失いつつ虚空をさまよう。
こいつは、完全にヤバい奴だ。話し合いも通用しないだろう。困惑しつつも、まだピヨと千代丸は戦闘態勢をくずさない。しかし、親父は同じ霊体。力の差を把握したのだろう。顔を強張らせ、ただ全身を小刻みに震わせていた。
「ボロスの師匠! どうか、拙者にご助言を。こいつの倒しかたを教えてくだされ」
逃げようと思った時だ。千代丸が俺にアドバイスを求めてきた。しかも、倒しかたって。どう考えても、こんな化け物を倒す方法なんて考えられない。
と思ったら、親父が「南無阿弥陀仏」と唱えている。いや、親父まで消えかけてるけど。天から後光のようなものが差してるけど――って、これ昇天しかけてるんじゃないか?
「千代丸よく聞け。人生には出来ないこともあるんだよ。だから……逃げろっ!」
俺はまずピヨをくわえて背に乗せると、続けて親父の首ねっこを引っ張って逃げる。千代丸も、ようやく事の深刻さに気づいたのだろう。指示を聞いてついてきた。
あれが地縛霊なら逃げ切れることができるだろう。しかしもし、浮遊霊だったら? 何処までも追いかけてくるのか? もしかしたら、逃げ場はないのかもしれない。
黒犬は親父を標的と決めたのだろう。追いかけてきて、徐々に距離がつまっていく。
「そういえば、こんな時のために用意していた物が。くらえ化け物、催涙玉!」
追いつかれたら終わりということを千代丸も感じ取ったのだろう。振り向きざま、黒い犬に向かって何かを投げつけた。それは確かに黒犬の前に落ちて赤い煙を出した。しかし、ここで予想通りというか、千代丸ならやりかねない問題が起きた。赤い煙は黒犬に向かってではなく、俺たちのほうに向かってきたのだ。
「うおおっ、風向き逆じゃないか!」
「赤いのはハバネロです。サービスで多く入れときました。いつもより五倍(当社比)です」
「そんなサービスと丁寧な説明はいらん!」
千代丸が言う当社の比率がわからないだけに、あの赤い霧には恐怖を感じる。
立ち止まることは許されない。迫ってくるのは黒犬だけじゃなく、ハバネロ入りの激辛催涙霧だ。背中にはピヨ、昇天しかけている親父。これは絶体絶命というやつじゃないか。
その時だ。突然、俺は体が硬直するのを感じた。これって、もしかして金縛り――。
と、思った途端、前のめりに転んだ。転んだ拍子にピヨが俺の背中から落ちる。羽根をばたつかせているところを見ると、どうやらピヨは金縛りになっていないらしい。
「ピヨ、千代丸と一緒に親父を連れて逃げろ!」
その状況下で俺の口から出た指示は、俺自身が理解できない指示だった。
俺、絶体絶命の時に何を言ってるんだ? ピヨや千代丸に運んでもらえばいいことだろう。追いつかれるかもしれないけど、そうしたら自分は助かるかもしれないじゃないか。
「ピヨッピピピピピヨッ」
ピヨは首を左右に振って「命令を聞くのは嫌だ」と鳴く。いや、ピヨ語は俺にはわからない。動きで何となくわかっただけだ。
「大丈夫だって、こういう危機的状況にはな。主人公の特権が働くもんなんだよ! 伝説の聖剣が出現したり、最強魔法を突如として思い出したり……」
俺自身、こんな誤魔化しでピヨが納得して逃げるとは思ってない。それなのに、必死にピヨを説得しようとしているのは何故だ?
「ピヨッ!」
その時だ。ピヨが高い声で鳴いた。赤い霧が間近に迫ってきたのだ。ハバネロ入りの霧だ。俺ならともかく、ヒナであるピヨが無事にすむとは思えない。
「千代丸! 師匠命令だ。俺を置いて、ピヨと親父を連れて逃げろ」
さすがに師匠命令と言われて千代丸も慌てて行動を起こす。しかし、ピヨは背中の羽根を逆立てて、近づいてきた千代丸を威嚇した。
ピヨが千代丸を威嚇したのは敵と認識したわけではなく、逃げたくないという意思表示だろう。ヒナでもチート能力のあるピヨだ。このまま千代丸と争っていると、共倒れする可能性が高い。
「千代丸!」
目配せすると、千代丸は察したのか親父だけを連れて逃げた。
迫りくる赤い霧からピヨを守ろうと体の下に隠した時、生温かい風が首元にあたった。その風は生温かいだけではなかった。それは数週間経った死肉の臭いがする息だ。
息がかかるほどの距離ということは、もはや逃げ切れる距離ではない。低い唸り声が耳元で聞こえていた。