ボロスとピヨのてんわやな日常
 腹の下でピヨが出せと騒いでいる。しかし、出すわけにはいかない。
 後には黒犬の気配があり、赤い霧は既に俺たちを覆い隠していたからだ。そして、息をとめてのりきろうと思ったのは、浅はかな考えだと気づいた。
 千代丸が当社五倍比と言っていた催涙玉は、呼吸をしなくても皮膚がピリピリする激辛度だったのだ。次第に呼吸も限界になってくる。
「ぶはっ」
 我慢できなくなって思い切り息を吸う。その瞬間、空気を取りこんだ口や鼻が一気に激辛一色に染まった。
「ごほっ、ぶほっ、ごふえっ!」
 咳込むと同時に大量の涙が出てくる。この時、俺は催涙弾の辛さをどうしようかと考えるのに必死だった。すぐ後ろに黒犬の霊がいることを忘却していたのだ。
 生温かいものが背中に触れる。それが黒犬の前足とわかると、俺は背筋に寒気を感じた。 一体、黒犬が何をしようとしているのか。想像しただけで、恐怖で身がすくむ。
 そして、その想像通り、黒犬の霊は俺の体に憑依しようとしてきた。
「うおえっ……」
 胃を掻き回されるかのような吐き気が襲いかかってくる。しかも、黒犬の思念が一気に頭の中に流れこんできた。激しい頭痛と耳鳴りがし、生命の危機を感じる。
 もっと愛奈に甘えておけばよかったなとか、もっと高級猫缶食べたかったなとか。なんで関係ない騒動に首突っこんで、こんなにつらい思いをしなきゃいけないんだとか。
 欲求とか未練とか後悔とかが一気に浮かぶ。もう駄目だと思った時だ。
「ボロスの師匠! 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時……」
 千代丸が何やら妙な呪文を唱えはじめる。いや、これは念仏か?
 途端に黒犬の霊が俺から離れ、唸り声をあげながら後退しはじめた。
「親父殿を安全な場所に避難させました。そうしたら親父殿が黒犬にこう唱えろって。どうやら効果はあったようですね」
 そういえば先程、親父は念仏を唱えていた気がする。しかし、親父の「南無阿弥陀仏」は効かなかったのだけど、千代丸の念仏が効いたのは、どういうことなのだろうか?
「親父殿が、先程念仏が効かなかったのは、宗派が違うからだろうって」
「犬に宗派ってあるのっ? はじめて知ったのですが!」
 と、突っこみはしたものの、しっかり黒犬に効いたのだから納得せざるを得ない。
 同時に、もし千代丸が念仏を唱えながら戻ってきてくれなかったらと考えて震えた。
 退いた黒犬を見ると、見えない壁に阻まれたかのように前進できないでいる。これなら、もう憑依される危険はないだろう。
 ほっと安堵の息を吐くと、突然、千代丸は涙目になって大きな声をあげて泣きはじめた。
「面目ない。拙者の勝手な行動でボロスの師匠に辛い思いをさせて! 吾輩は駄目な弟子です。破門されても仕方のないクズです。ごめんなさい。ごめんなさい」
 千代丸の言った辛いが、「からい」と「つらい」の二重の意味を持っている気がするが、これはセリフ。小説の文字ではないので、どっちだよ! という突っこみはなしにするとして。確かに千代丸はトラブルメーカーだ。しかし、クズとまでは思ってはいない。
「破門って何だよ? 俺はお前を弟子にした覚えはないぞ。弟子にしてほしいという頼みに答えてもないしな」
 俺の答えに千代丸の顔色がみるみる青ざめていく。
「えっ、それでは拙者はやはり弟子失格……」
「だから、弟子とか師匠の上下関係の立場って変だろ。年もたいして変わらないみたいだし。俺はお前の師匠じゃない。お前の仲間であり親友だ。だからこそ、お互い支え合い、互いの気持ちも行動も考えないとな」
「ピヨッピピヨッ」
 話の途中でピヨが声を出しながら、まだ伏せたままの俺の腹の下から這い出てくる。
「いや、何を言っているかわからないが、お前は俺の餌だから。ハバネロ味より、俺は香り揚げ醤油や塩だれ味が好きなんだよ。だから助けただけだからな」
「相変わらず、ボロスくんは複雑な心理を持っているな。すこしは素直になればいいのに」
 黒犬が動けないのを見て、安全と判断したのだろう。避難していた親父が浮かびながら戻ってきて、そう言ってくる。
 ここで親父の言葉を否定しちゃ駄目だ。ムキになったのは何故かと、からかわれるかもしれないからな。そう考えて聞こえなかったふりをする。
「しかし、現世に残るだけで凶悪な霊になるものなのかね。わしは自我があるのだが」
 そうだ。親父が真剣な表情になって言ったので思い出した。俺は黒犬に憑依されかけた時、その思念を全て知ってしまったのだ。
 黒犬がとどまり続ける理由と、親父の霊力を食らってまで果たそうとした目的を。
「俺もどうやら、変なものにあてられたみたいだな。黒犬の霊の件、すこし調べてみるか」
 親父を食らうのを諦めたのだろう。黒犬は憎々しそうに唸り声を出したまま、徐々に姿を消していった。そう、俺の決断や想いを感じないままに。
 そして、俺の言葉の意味を捉えきれずに、親父とピヨと千代丸は首を傾げていたのだった。
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