ボロスとピヨのてんわやな日常
黒犬に変化した千代丸は、黒犬の飼い主との距離を少しずつつめていく。
駆け寄るのでもなく、尾を振るのでもなく、ただ静かに時を刻むように一歩ずつ。
千代丸と黒犬の飼い主との距離が五メートルほどになったくらいだ。黒犬の飼い主が動きをとめた。
視覚障害者は、健常者より聴覚が優れているという。おそらく、地面を叩く爪の音が、黒犬の飼い主の耳に入ったのだろう。
「もしかして、ハッピーか。ハッピーなのか?」
黒犬の飼い主が震える声で、黒犬に変化した千代丸に話しかけていた。
俺たちは、黒犬の名前がハッピーとは知らない。しかし、黒犬の飼い主の反応が全てを語っていた。ずっと、お前に会いたかった。ずっと、お前に触れたかったと。
「ワン!」
間髪入れずに千代丸が吠える。声真似も完璧と言っていたのは、このためか。同時に、黒犬の飼い主は顔を手で覆いながら、泣きはじめた。
「お前は、お前は、まだ俺を慕ってくれているのか……事故に遭ったというのに。私のせいで命を落としたというのに」
――驚いた。黒犬の飼い主は黒犬が死んだと知っていながら、千代丸が真似した黒犬の足音に反応したのである。それは、飼い主と飼い犬が、今でもつながっているという証だった。
黒犬の飼い主の手から白杖が離れる。杖が転がる音が響き、千代丸は白杖をくわえると、黒犬の飼い主に差し出した。
考えると、俺たちは酷い嘘をついている。黒犬の飼い主を騙しているのだ。それでも、これは優しい嘘に違いないと自分に言い聞かせた。
杖を受け取った飼い主は涙を拭う。それを確認した千代丸は、黒犬の飼い主の左腕の裾を噛み、左側についた。そこで俺はようやく千代丸の作戦の意味がわかった。
そうか。その姿のままで、黒犬の飼い主を本物の黒犬がいた事故現場まで誘導しようというのか。親父とピヨも千代丸の考えがわかったのだろう。
「ピピヨッピピッピヨヨ」
「ピヨくんが、黒犬の飼い主をしっかり誘導しないとだそうだ。霊力で、わしも誘導できるかもしれん。千代丸くんがいろいろ考えてくれたんだ。わしらも協力せんとな」
「じゃあ、ここは皆に任せて、俺は先回りして黒犬の様子を見てきていいか? せっかく誘導しても、黒犬が出てこなければ意味がないからな」
俺がそう言うと、親父はウインクしながら任せろというようなポーズをしてみせた。ピヨも敬礼ポーズをしてみせる。
「それじゃあ、みんな、頼んだぞ」
三匹に黒犬の飼い主の誘導を任せて俺は駆ける。黒犬には嫌な目に遭わされたが、今の俺からは恐怖は払拭されていた。
黒犬の思念にあったのは、飼い主に会いたいという強い想いだけだったからだ。
背中にいつもいるピヨはいない。親父だっていない。千代丸も頑張っている。
ここは俺がやらなければいけないという責任がのしかかる。けれど、そんな重責もピヨとクリアしてきた無理難題と比べると、たいしたことのない気がしていた。
黒犬に襲われた場所に戻ってきた俺は、まずは辺りの様子をうかがう。前ほどの邪悪な霊圧はないが、黒犬の霊が留まっている気配は感じ取れた。
「いるなら出てきてくれ黒犬! お前の飼い主は生きているぞ。そして、今でもお前を愛しているぞ!」
張り裂けんばかりの声で黒犬に呼びかける。すると、目の前の空間に黒いひずみが現れていた。そして、そのひずみから、黒い煙のようなものが出てきて、徐々に生物の形を成していく。
そう、それは黒犬に違いなかった。しかし、俺がはじめて見た黒犬の状態とは少し違う。全くないとは言えないが、邪悪な念が薄れている気がした。いや、薄れているのではない。黒いものと白いものがぶつかり合っているような。そんな複雑な存在になりつつある。
それは、黒犬が生前の心理状態に戻りつつあることを意味していた。その時だ。
「ワンワンワンッ!」
犬の吠え声が響き渡る。振り向くと、そこにいたのは変化した千代丸と黒犬の飼い主。そして、共に誘導してきたであろうピヨと親父の姿があった。
「ここは、ハッピーと事故に遭った場所じゃないか。そうか。それで、ここにきてほしかったんだな」
黒犬の飼い主が黒犬に向かって歩いていく。しっかりと真っ直ぐに、絆という鎖に繋がれているように迷うことなく。
「クーン……」
黒犬の飼い主が、黒犬を抱いた時、黒と白で入り混じっていた念は白いものに変わっていた。黒犬の飼い主は、停まっていた時間を取り戻すかのように黒犬に言葉をかけ続ける。黒犬も忘れかけていた飼い主のぬくもりを確かめるかのように甘え続けた。
しかし、黒犬は霊体だ。少しずつ姿が薄くなっていく。それは、成仏を意味していた。
「ありがとう。待っていてくれて、ありがとう。今までありがとう」
視覚障害者である黒犬の飼い主に、俺たちは見えない。
「いこうか。ピヨ、親父、千代丸」
そこに俺たちという部外者は必要ない。
黒犬の飼い主が別れの余韻の中、涙を流し続けるのを確認した俺たちは、そのままその場を後にして、帰途へと就いていた。
駆け寄るのでもなく、尾を振るのでもなく、ただ静かに時を刻むように一歩ずつ。
千代丸と黒犬の飼い主との距離が五メートルほどになったくらいだ。黒犬の飼い主が動きをとめた。
視覚障害者は、健常者より聴覚が優れているという。おそらく、地面を叩く爪の音が、黒犬の飼い主の耳に入ったのだろう。
「もしかして、ハッピーか。ハッピーなのか?」
黒犬の飼い主が震える声で、黒犬に変化した千代丸に話しかけていた。
俺たちは、黒犬の名前がハッピーとは知らない。しかし、黒犬の飼い主の反応が全てを語っていた。ずっと、お前に会いたかった。ずっと、お前に触れたかったと。
「ワン!」
間髪入れずに千代丸が吠える。声真似も完璧と言っていたのは、このためか。同時に、黒犬の飼い主は顔を手で覆いながら、泣きはじめた。
「お前は、お前は、まだ俺を慕ってくれているのか……事故に遭ったというのに。私のせいで命を落としたというのに」
――驚いた。黒犬の飼い主は黒犬が死んだと知っていながら、千代丸が真似した黒犬の足音に反応したのである。それは、飼い主と飼い犬が、今でもつながっているという証だった。
黒犬の飼い主の手から白杖が離れる。杖が転がる音が響き、千代丸は白杖をくわえると、黒犬の飼い主に差し出した。
考えると、俺たちは酷い嘘をついている。黒犬の飼い主を騙しているのだ。それでも、これは優しい嘘に違いないと自分に言い聞かせた。
杖を受け取った飼い主は涙を拭う。それを確認した千代丸は、黒犬の飼い主の左腕の裾を噛み、左側についた。そこで俺はようやく千代丸の作戦の意味がわかった。
そうか。その姿のままで、黒犬の飼い主を本物の黒犬がいた事故現場まで誘導しようというのか。親父とピヨも千代丸の考えがわかったのだろう。
「ピピヨッピピッピヨヨ」
「ピヨくんが、黒犬の飼い主をしっかり誘導しないとだそうだ。霊力で、わしも誘導できるかもしれん。千代丸くんがいろいろ考えてくれたんだ。わしらも協力せんとな」
「じゃあ、ここは皆に任せて、俺は先回りして黒犬の様子を見てきていいか? せっかく誘導しても、黒犬が出てこなければ意味がないからな」
俺がそう言うと、親父はウインクしながら任せろというようなポーズをしてみせた。ピヨも敬礼ポーズをしてみせる。
「それじゃあ、みんな、頼んだぞ」
三匹に黒犬の飼い主の誘導を任せて俺は駆ける。黒犬には嫌な目に遭わされたが、今の俺からは恐怖は払拭されていた。
黒犬の思念にあったのは、飼い主に会いたいという強い想いだけだったからだ。
背中にいつもいるピヨはいない。親父だっていない。千代丸も頑張っている。
ここは俺がやらなければいけないという責任がのしかかる。けれど、そんな重責もピヨとクリアしてきた無理難題と比べると、たいしたことのない気がしていた。
黒犬に襲われた場所に戻ってきた俺は、まずは辺りの様子をうかがう。前ほどの邪悪な霊圧はないが、黒犬の霊が留まっている気配は感じ取れた。
「いるなら出てきてくれ黒犬! お前の飼い主は生きているぞ。そして、今でもお前を愛しているぞ!」
張り裂けんばかりの声で黒犬に呼びかける。すると、目の前の空間に黒いひずみが現れていた。そして、そのひずみから、黒い煙のようなものが出てきて、徐々に生物の形を成していく。
そう、それは黒犬に違いなかった。しかし、俺がはじめて見た黒犬の状態とは少し違う。全くないとは言えないが、邪悪な念が薄れている気がした。いや、薄れているのではない。黒いものと白いものがぶつかり合っているような。そんな複雑な存在になりつつある。
それは、黒犬が生前の心理状態に戻りつつあることを意味していた。その時だ。
「ワンワンワンッ!」
犬の吠え声が響き渡る。振り向くと、そこにいたのは変化した千代丸と黒犬の飼い主。そして、共に誘導してきたであろうピヨと親父の姿があった。
「ここは、ハッピーと事故に遭った場所じゃないか。そうか。それで、ここにきてほしかったんだな」
黒犬の飼い主が黒犬に向かって歩いていく。しっかりと真っ直ぐに、絆という鎖に繋がれているように迷うことなく。
「クーン……」
黒犬の飼い主が、黒犬を抱いた時、黒と白で入り混じっていた念は白いものに変わっていた。黒犬の飼い主は、停まっていた時間を取り戻すかのように黒犬に言葉をかけ続ける。黒犬も忘れかけていた飼い主のぬくもりを確かめるかのように甘え続けた。
しかし、黒犬は霊体だ。少しずつ姿が薄くなっていく。それは、成仏を意味していた。
「ありがとう。待っていてくれて、ありがとう。今までありがとう」
視覚障害者である黒犬の飼い主に、俺たちは見えない。
「いこうか。ピヨ、親父、千代丸」
そこに俺たちという部外者は必要ない。
黒犬の飼い主が別れの余韻の中、涙を流し続けるのを確認した俺たちは、そのままその場を後にして、帰途へと就いていた。