ボロスとピヨのてんわやな日常
 俺は千代丸のように心を読むことができない。それなので、大輝少年の心の叫びは嗅覚を通じて捉えることができたのだろう。
 犬は鋭い嗅覚から、人間の感情を香りで知ることができるという。犬の嗅覚に猫は劣るが、俺は他の猫より嗅覚が鋭い。そして、今はハクジャの薬の影響もある。そのため、いつもより嗅覚が鋭くなっていると思われた。
 千代丸が震えているのが見えた。心を読める千代丸だ。少年が考えていることが直接、脳に流れこんできているのかもしれない。
「千代丸、無用な心理にあてられるな。自分が壊れるぞ! 今できる最善の手を思い出せ。そして、絶好の時がくるのを冷静に見つめながら待つんだ」
 俺の声に千代丸が驚いて跳ねる。相当、周りが見えなくなっていたんだな。
 先が思いやられると溜め息を吐いた時、俺の前を黄色いモノが通りすぎていった。
「ちょっ、ピヨ。お前はもっと謙虚になれ。すこしは臆病さも持って! チキンなだけにキチンとして!」
 我ながら、上手いことを言ったなと思いつつとめたのだが、ピヨは構うことなくテントの下を潜って外に出てしまう。
 そうだよ。あいつはそういうやつだった。一度決めたら簡単には諦めないチートなヒヨコさんなんだった。俺が制止しろと叫んだだけでは、歩みをとめるわけがない。
 殺意ある少年VSチートなヒヨコ。どちらが勝つのか興味はあるが、今回の問題は迎え撃つだけでは解決することができない。
 仕方なくピヨを追って外に出る。すると、十メートルほど離れたところに、あの少年の姿が見えた。
 あっ、こっち見た。ちょっと待て、石を拾っているみたいなんだけど。と思ったら、大輝少年は大人の拳二つ分の大きさの石を投げつけてきた。石は狙い澄ましたように一直線にピヨに向かっていく。
 ピヨの大きさと比較すると二倍ほどの石だ。当たればピヨでも無事ではすまないだろう。悲劇を想像して息を呑んだ瞬間、
「ピヨッ!」
 戦闘態勢となったピヨは、一声鳴くとくちばしを突き出した。その途端「パーン」という鼓膜が震える音が響き渡る。
 パラパラと音をたてながら降ってくる石の破片。大口を開けて目を丸くする大輝少年。得意気に鼻をならすピヨ。
 いや、そのパーンという擬音語はありえなくないかー。ないでしょ! という心の中の突っ込みを口から出すわけにもいかず、無理やり呑みこむしかない。
 そう、ピヨはあろうことか、少年が投げつけてきた石を必殺の六連コンボの一回のみで粉砕してしまったのだ。ピヨの攻撃に恐怖にちかいものを感じたのだろう。少年は、今度は俺に向かって石を投げてくる。
「ちょっ……俺は関係ないだろ!」
 向かってきた石を避けたが、目の前には二つ目の石が迫っていた。避けられないと思って、咄嗟に猫パンチを繰り出す。
 その瞬間、今度は「パキュンッ」という空気を裂く音がした。その音が次には「ズゴッ」という音に変わる。
 この感じは覚えがある。田舎で木を叩いた時に倒れた、あの闘魂注入の時と同じだ。
 俺が猫パンチをした石は、物凄い勢いで空気を裂いて飛んでいき、進行方向にあった岩に突き刺さって、ようやくとまったのである。
 大口を開けて目を丸くする大輝少年。驚いているかわからないが、静止状態になったピヨ。思いがけない展開に、得意気に鼻をならせずに呆然とする俺。
 音を聞いて、ゲンさんが起きてこないのは幸いだが、どうしたらいいんだ? これじゃあ、千代丸に指示したのが台無しじゃないのか? と思った時、一陣の風が葉を大量に舞い上げ、俺たちを取り巻いていた。
 葉は自然と舞い上がったのではない。それを証拠に塊となり、竜のような形になる。そう思うと、今度は人型に変わっていく。人型に変わった葉が拡散すると、その中から女性が姿を現していた。
 心が癒される優しい笑顔。女性の心理は慈愛の香りに満ちていた。
 女性の正体は、変化した千代丸に間違いないだろう。尾が出ているからだ。しかし、心理まで本人そっくりになれるとは驚いた。人の心を読める千代丸だからこそ、忠実に再現できるのだろう。
 少年は女性を見て金縛りに遭ったように動かなくなった。視線は女性に固定されたままだ。そして、唇を震わせ、目から一粒の涙を流す。
「おかあさん? おかあさんなの?」
 舞い散った葉は地面に落ちることなく、俺たちの周りを舞っている。
 これも忍術のひとつか。千代丸のやつ、演出が凄いじゃないか。そこでようやくわかった。千代丸は俺たちの失敗を逆に利用したのである。
 石を一突きで粉砕するヒヨコ。石を弾丸のように弾き返す猫。普通の人間なら、現実なのかと疑うに違いない。
 その前置きがないまま、少年が母親と対面していたらどうなっていただろうか。死んだ母親は自分を迎えにきたのではないかとか、幻だろうから本物かどうか確認しようとか、恐怖や冷静さが先に生まれるはずだ。
 しかし、俺とピヨが先に騒ぎを起こしたことで、動揺の後に安堵の展開が生み出された。人間は混乱から逃げ出そうとすると、まずは安堵を第一に受け入れようとする生き物だ。
 ――先を考えてみな。あの子供の気持ちになりながら。さあ、どうなる?
 そして、千代丸は、俺のアドバイスもしっかり覚えていたのだ。
 千代丸は少年の質問に首肯する。ただ頬笑みを浮かべて、少年を見つめる。
「おかあさん、おとうさん酷いんだよ。おかあさんが居なくなって、すこししか経っていないのに、すぐに新しいお母さんを連れてきて……僕、もう誰も信じたくないよ。楽しそうに笑っている人を見ると、嫌で嫌で仕方がない」
 少年にあった憎悪の念が嘘のように晴れている。見せかけの強さを捨て、誰にも見せていなかった弱き者の本音を、たったひとりの信頼できる者に語っているのだ。
「おい、なんだ。今の音は? ……って、大輝! ええっ、奥さん?」
 その時だった。ビニールが揺れたかと思うとゲンさんが出てくる。勢いで出てきたのもあってか、たたらを踏んでから驚愕の声をあげた。
「申し訳ありません……この度は息子が大変お世話になりました」
 深々と頭を下げる変化した千代丸。それを見て少年は、何も言わずに唇を噛みしめる。
「いや……俺も、やんちゃな頃があったからな。正直、馬鹿野郎とも思ったけど、他人じゃない気がしてさ。そこまでは、気にしていないよ」
 ゲンさんが照れ臭そうに頭を掻いて答える。これ見て、大輝少年が頭を下げた。
「ごめんなさい。俺、俺……」
 ゲンさんは、大輝少年の頭に手を置くと乱暴にガシガシと撫でる。
「お天道さまと、母ちゃんはいつでもお前を見てくれているってな。お前さんも強くならんとな」
 たががはずれたのだろう。大輝少年は声を出して泣いた。慟哭は他のホームレスたちの耳にも入ったのか、電気がつきはじめる。
 ここらへんが潮時と千代丸は捉えたのだろう。葉が再び生き物のように渦になったかと思うと、女性を包みこんでいた。
「おかあさん。僕、もっと話したいことが!」
「お父さんと新しいお母さんを愛してあげてね。あなたは本当は優しい子。愛しているわ」
 葉が飛び散ったそこには女性の姿はなく――。
 ただただ大きな声をあげて泣く大輝少年の涙は、心の底から後悔した香りと、胸が引き裂かれるような悲しさが入り混じった、塩辛い香りがしていたのだった。
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