ある賢者の独白

「そもそも人の理性というシステムについてわたしはある程度の捏造された考察と仮説を以て理解に及ばなければならない。其れはあくまでわたしの物差しの目盛りであり、決してその線と線の距離が他の物差しと一緒だとは限らないのだよ。とても自然の無垢な方程式では構築できないような複雑怪奇な数列が、理性というものにはある。」

 日没は既に始まっていた。窓越しに地平線へ落ちかけた燃えるような赤い陽が窓枠の隙間に染み出してくるかのように、彼が眠っていた部屋の中へ差し込んでいる。
 レースのカーテンは緩やかに踊っていた。風が通っている。ドレスの裾を靡かせるようにしてカーテンを弄んだ風は、そのままするりと流れてきて彼の頬を撫でた。
 ひやり、自分の頬に水滴の気配がする。
 風につつかれて涙というその水滴は、丘を描いた頬の上をつたい、彼の膝の上へ落ちた。

「人にとって一足す一は二ではない。理性というものが方程式にかけるのは、数字などという人が事物を簡略して数えるために産み出された安易な記号などではないからだ。人を計る方程式に数字などは存在しない。一足す一は、例え同じ発音、同じ数量の因子を用いたとしても時に幸福の数字となり、また時には不幸の数字ともなる。」

 彼の座る安楽椅子の側には、古い木彫りの机がまるで巨木そのもののように居座っていた。根を張り巡らせるようなデザインの彫り物には年代が感じられ、同時に、大事にされてきたんだろうという様子も感じられた。何故だろう。
 机の上には糸巻きが、空の滑車を見えざる腕により回り続けている。からからと乾いた音が可愛らしい。幾つかの糸屑と、それから白い壁にもたれ掛かるようにして放り出された、作りかけの二つの人形。
 室内がオレンジ色に包まれていた。そこだけが灯火に満ちているような、そこだけがこの世界のすべてなのとでも言うような、遮断され閉じ込められたこの空間がひどく愛おしい。
 どうやら彼は、泣いているらしかった。

 「なぜ時に人は、自らの命を投げ出してまで他人のために働くのだろう。病弱な娘。生きる力のないその娘さえ見捨ててしまえば家族みんなが暖かい暖炉に集まれたというのに。
 なぜ時に人は、他人の命を犠牲にしてまで国というものを守るのだろう。殺し合いなどという発想さえなければ誰の大切な人も失われないというのに。
 なぜ時に人は、兄弟のために自らのものを分け与えることができるのだろう。なぜ人は人を殺すことができるのだろう。なぜ人は人を裁くことができるのだろう。なぜ………人は、生産という世界のルールに反しながら、それでも世界を律することができるのだろう」

 オルゴールが鳴っていた。
 壊れているのだろうか、めちゃくちゃな音程で歌うそれはいつぞやのオルガンの音によく似ていて。金属が弾かれる、指が弾く、疎らな時の流れと言うやつが焦れったくて心地よい。
 あの箱の中ではきっと誰かが歌っている。彼とよく似た目をした彼は、きっとめろでぃというものをよく知らないのかもしれない。

 その人は彼の隣にずっと座っていた。柔らかな微笑みを湛え、虚ろな瞳に悲しみを讃えた寂しそうなその人は、彼に笑いかけて肩を揺らした。

「音楽という生産性の無いものに、人はどうしようもなく恋い焦がれる。なにも産み出しはしないくせに、それは神が生まれる幾千年も前から、この世界ができた頃からそうだったのかもしれない。時に人の理性というやつは音楽というものの影響を受けることがある。悲しみを掬い喜びを与え、失望を希望に変え胸を熱くして感動を与える。この音という現象の掛け算にはどんな方程式が隠されているのだろうね?」

 彼はなにも考えることができなかった。
 ただ両手を覆って泣くことしかできなかった。
 人はなぜ泣くのだろう。この泣くという行為にはどのように他人に影響を及ぼし、どのように世界を揺るがすのだろう。
 これもまた、人の理性というやつが勝手に始めた途方もない方程式の途中。因子さえ不明な解く価値もない問題。この因数分解が完成したところで世界の誰も巣くわれないというのに。

「時に、これはわたしの仮説なのだが」

 その人は言葉を切った。
 彼からは横顔しか伺えない老いた表情にいくつも刻み込まれた皺。その人が口を閉ざす度に、それは失われ重たい跡ばかりを残す。

「人の理性というものは、おそらく神の残した最後のひと欠けなのだろうね」

 最後のひと欠け。

「食物が連なるこの世界で、自然というものは実に気の長い連鎖を産み出した。なんて美しくてつまらないサークルだろうね。この食う食われるの単純な式の中から、人というやつがただひとり逸脱してしまった。彼らはなにも産み出したりはしない。火を騙り風を汚し地を屠り水を腐してなお、死骸は無益に砂となりそれは植物をも育まない。それでもなお人は世界に生きることを許されている。
なんて面白くて、残酷で滑稽な世界だろう!人によって連鎖の端くれが砕け、それは『非常』な『物語』として描かれる!生産性のない無益こそ、人間!役に立たない無償の愛こそ、人間!神が残した唯一の『エラー』によって、世界は狂おしいほどにドラマチックに彩られ、誰かが生き誰かが死んでいることが実感できる!これが例え一人の妄想だとしても、例え自己中心的な思考だとしてもそんなことはどうでもいいさ!我々は生きているのだから!」

 糸車が止まった。
 そういえば紡いでいた麻は何処へ行ったのだろう。なにに使うものだったのだろうか。
 作りかけの人形は何故だか無表情だった。可愛らしいレースと生地に包まれた双子の人形は、青と紫の花を抱えて窓辺に佇んだまま。

 寂しい。

 そう、思った。

「音楽というものもまた、人が産み出した無償の産物だよ」

 寂しい、寂しい。

 冷たい。

 寒い。

 恐ろしい。

「『彼』は最初で最後の贈り物として『めろでぃ』というものを選んだ。そんなものがなくても、恐らく君は生きていられただろう。それでも『彼』がそれを君に贈ったのは、きっと、君に『人』として生きて欲しかったんじゃないかな」

 嗚呼、ああ、神様。

 神様というのは本当に存在しますか。

 本当に僕たちを作った凄い人なのでしょうか。

 それともこれも、ただの理性の妄想?

 救われたい、掬われたい。

 なんて、重たく、恐ろしい贈り物。

 僕は、そんなものより、そんなものより。

「君は愛されていたし、これからも愛されていいのだよ。その聴覚が枷となるのなら、いつか巡り会わせた地平線で『彼』に返しにいくといい。」

 こんな、ものより。

「いつか生まれるに相応しい、彼の地平線までね」



 僕は、あなたに逢いたかった……兄さん

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