(短編集)ベッドサイドストーリー・1
気持ちも落ち着いたわ。ここで今日会えなかったら、もうこの気持ちはなかったことにしようかな、って。
ここに来る前に会社の更衣室で鮮やかな色の口紅をひきながら、そう思っていたのだった。
いいじゃない、恋がなくったって。私はこの店が大好きだし、それだけで十分じゃない?って。
大体あの人に話しかけてこの淡くて脆い恋が破れたら、私はこの店にいけなくなるかもしれない。それはまさしく悲劇に違いない。ならば、元々この気持ちを抱えたままで生きていくって選択肢もあるわよね─────・・・
彼がいない、その事実で肩の力が解れ、私は芯から落ち着いて嬉しい気持ちで椅子に座る。カウンターに並べられたスコーンの大皿、それから飴やポッキーなんかが入った瓶。可愛い、ここの空間が本当に好きだ、そう思ってニコニコしていた。
その時マスターが、どうぞ、と前からカプチーノをサーブしてくれる。そしてそのついでのように、ポンと言葉を落としたのだ。
「誰かを探しているんですか?」
って。
私はちょっとどきりとしたけれど、何てことないかのように首を振った。いえ、そんなことないです、って。するとマスターは更に微笑みを大きくして、続けて言った。
「待ってましたよ、あなたを」
「え?」
私はきょとんとしてマスターを見詰める。一体何だろう、いきなり。待ってた、私を?誰が?
「すみません、マスター。何の話ですか?」
口ひげを蓄えたマスターは、目を細めて優しい顔をした。それから小声で、続ける。
「いつもここに来てくれる男性がね、あなたのこと、待ってましたよ。眼鏡の・・・わかりますか?」