school caste
「あ……タカナシさん……」
教室から出たら、か細い声で呼び止められた。
声の方に顔を向けると、げっそりとした女性が立っている。もう何日も眠っていないかのような、ひどい顔色だ。
目の下にはこびりついているように深いくまがある。
彼女はこのクラスの担任、カワノ先生。
もとは元気はつらつで明るくて、誰よりもクラスの輪を大切にする教師だった。
カワノ先生もお姫様の被害者。
どうやらお気に召されなかったようで、散々お姫様の父親にいびり倒された。放課後彼女のもとに何通も苦情の電話が入れられて、彼女の謝罪の声が職員室から絶えなかったことを覚えている。
ほんのちょっとしたことでも、彼女の父親は目くじらを立て、最悪お姫様自身が改めなければならないことでも激昂した。
謝罪の毎日。
次第に彼女の精神は病んでいき、体調を崩して休むことが多くなった。
副担任の教師もそれが不満であるようで、ホームルームの後に忌々しげに担任の名簿を見てため息をついている。
副担の指導は日を重ねるごとにおそろかになり、生徒の暴走を止める人はいなくなった。
クラスへの視線も無くなり、誰も小さな社会が成立していることに気づかない。
とはいえ私は彼女を憎むことが出来なかった。
ここに先生が含まれていたとしたら立場はほぼ同じ。
先生もいじめられる対象。
クラスの輪を大事にしようとしても、いじめがあることに気づきかけている彼女。
壊れ始めている彼女にさらに壊れろなんて言えるわけがない。
「久しぶりね……。ちょっと体調良くなったから、戻ってきたの……。
あなたも、大丈夫?」
カワノ先生は唯一スクールカーストがあることに勘づいている教師。
職員室でいびられている間にも、いじめを受けていた私を気にかけてくれていた。
私は無表情のまま答える。
「私にとっての一難は去りました。」
「そう……ごめんなさいね…」
一体何故謝るのか。これは生徒の間の問題だ。教師に解決できるような代物ではない。
カワノ先生が謝ることなんて一つもないのに。
「私も随分と影が薄くなったわね……。初めは教師が教室に入る前から生徒たちは静まりかえってたのに、今はうるさいまんまなの。授業が始まっても皆やりたい放題で、誰も絵を描いてくれないし……」
カワノ先生の担当科目は美術。
初めの頃はとても楽しかったことを覚えている。
毎度先生が課題を出して、それに沿って絵を描いていくのだが、課題の内容はいつもユニークで面白かった。
今となっては美術は切り捨て教科。美術の変わりに数学や国語が増えて、毎日生徒たちがぼやいている。
もう一度あの頃に戻れたらいいのに。
メグミいじめでざわつく教室に目をやり、彼女は教室のドアに手をかける。
「やかましいわね……一体何が起きてるの?」
ガラッ。
ドアが開いた瞬間、私はぎょっとする。
まるで仁王立ちしているかのように、お姫様がすぐそこに立っていた。
品のよい笑顔で、あら、と声をあげる。
「カワノ先生。お久しぶりです。
もう二度と戻って来ないかと思っていました。」
動じず、カワノ先生は微笑み返す。
「あなたとは久しぶりね。クラスメートと仲良くできてる?メグミさん、クラスの輪に馴染んでるかしら?」
私は彼女のその目に、強気を感じた。
いじめを受けていた時、私は辛さのあまり加害者がお姫様であることをほのめかしたことがある。
その事を気に病んだあげく、メグミもお姫様の手に掛かっているのではないかと疑っているようだ。
先生の疑念は的を射た。
でも加害者自身が白状するわけがない。
「もちろんです、先生。2組はどのクラスよりも仲がいいんです。
皆ちゃんと、メグミさんのこと、クラスの一員として認めていますよ。」
小綺麗に装った笑顔の裏側。きっと人を食ったような笑みなのだろう。
先生は気づいているだろうけど、平穏で表情を崩さなかった。
代わりにじゃあ、と後を継ぐ。
「そのチームワークで、今年の球技大会は優勝を目指せるかしら。」
小脇に抱えているA4クリアファイル。その中には球技大会のことについての書類が閉じられていた。
どうやらホームルーム活動で、チーム編成などの取り決めを行うようだ。
目ざとくお姫様はそれを見て、クリアファイルを無理矢理取り上げた。
「学級委員長ですから、私がやっておきます、先生。
生徒たちの間で、優勝できるようなチームを編成しますから。」
「でも、担任がいないと大騒ぎするでしょ?あなたたち。」
先生がざわつく教室に目をやる。
すると、背後から気配。
カワノ先生の肩に、副担任の女教師、アイ先生の手が置かれた。
「心配無用です、カワノ先生。クラスは私が見てますから。
復帰してもまだ体調が悪いんでしょう?
無理せず、ここは私に任せてください。」
「ですがアイ先生。少なくとも私は担任です。担任である以上、クラスの決めごとにはちゃんと参加しないと……」
懸命な担任の主張は無慈悲に、不機嫌な副担任に遮られる。
「担任だったら、ちゃんと毎日学校に来てクラスの面倒を見てください。
一体何回休んだら気がすむんですか?
担任がそんなだから、生徒が信頼してないんですよ。」
「幾度か欠席した点は謝ります。ご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ございません。」
「私ではなく生徒に謝りなさいよ。」
アイ先生は舌打ちをする。
「慣れない顔がいたら生徒の気が散ります。職員室に戻って、事務の仕事でも手伝って下さい。
私も虫の居所が悪いんですよ。」
「でもそんな、アイ先生…!!」
カワノ先生が反論しようとしたその時、廊下の奥から学年主任の男教師が真っ赤な顔をして走ってきた。
カワノ先生!と呼び掛けながら太った体を懸命に動かしている。
表情からするとひどく怒っているようだ。
また良からぬことでも起きたのだろう。
「あー、あの、カワノ先生」
短距離でも疲れたのか、主任はある程度此方に近づいた後、立ち止まって肩で息をした。
大きく目を開き、ひどく怯えた様子のカワノ先生にハンドサインで職員室に戻るように伝える。
「電話!電話ですよ!いつもの!!先生を連れてこいってうるさいんです!もうこっちじゃ対応しきれませんよ!!」
「あの…これからホームルーム活動なのですが…。」
カワノ先生が教室のドアを指差すが、主任は聞こうともしない。
「あー、いいのいいの!そんなのはアイ先生に任せておけば!早く来てくださいよ!あのうるさい電話を止めてください!!」
カワノ先生はアイ先生を見た。
アイ先生は目をそらし、教室に入っていく。
お姫様はカワノ先生に微笑みかけた。
「早く行ってあげて下さい。」
誰の父親のせいなのか。一瞬先生の顔色が変わる。
お姫様はクスクスと笑いながら私の手を引っ付かんだ。
私は主任に強制的に職員室へ連れていかれるカワノ先生を、見送るしかできなかった。
殺気を帯びたお姫様の声が、耳を貫く。
「二度はないから」
教室から出たら、か細い声で呼び止められた。
声の方に顔を向けると、げっそりとした女性が立っている。もう何日も眠っていないかのような、ひどい顔色だ。
目の下にはこびりついているように深いくまがある。
彼女はこのクラスの担任、カワノ先生。
もとは元気はつらつで明るくて、誰よりもクラスの輪を大切にする教師だった。
カワノ先生もお姫様の被害者。
どうやらお気に召されなかったようで、散々お姫様の父親にいびり倒された。放課後彼女のもとに何通も苦情の電話が入れられて、彼女の謝罪の声が職員室から絶えなかったことを覚えている。
ほんのちょっとしたことでも、彼女の父親は目くじらを立て、最悪お姫様自身が改めなければならないことでも激昂した。
謝罪の毎日。
次第に彼女の精神は病んでいき、体調を崩して休むことが多くなった。
副担任の教師もそれが不満であるようで、ホームルームの後に忌々しげに担任の名簿を見てため息をついている。
副担の指導は日を重ねるごとにおそろかになり、生徒の暴走を止める人はいなくなった。
クラスへの視線も無くなり、誰も小さな社会が成立していることに気づかない。
とはいえ私は彼女を憎むことが出来なかった。
ここに先生が含まれていたとしたら立場はほぼ同じ。
先生もいじめられる対象。
クラスの輪を大事にしようとしても、いじめがあることに気づきかけている彼女。
壊れ始めている彼女にさらに壊れろなんて言えるわけがない。
「久しぶりね……。ちょっと体調良くなったから、戻ってきたの……。
あなたも、大丈夫?」
カワノ先生は唯一スクールカーストがあることに勘づいている教師。
職員室でいびられている間にも、いじめを受けていた私を気にかけてくれていた。
私は無表情のまま答える。
「私にとっての一難は去りました。」
「そう……ごめんなさいね…」
一体何故謝るのか。これは生徒の間の問題だ。教師に解決できるような代物ではない。
カワノ先生が謝ることなんて一つもないのに。
「私も随分と影が薄くなったわね……。初めは教師が教室に入る前から生徒たちは静まりかえってたのに、今はうるさいまんまなの。授業が始まっても皆やりたい放題で、誰も絵を描いてくれないし……」
カワノ先生の担当科目は美術。
初めの頃はとても楽しかったことを覚えている。
毎度先生が課題を出して、それに沿って絵を描いていくのだが、課題の内容はいつもユニークで面白かった。
今となっては美術は切り捨て教科。美術の変わりに数学や国語が増えて、毎日生徒たちがぼやいている。
もう一度あの頃に戻れたらいいのに。
メグミいじめでざわつく教室に目をやり、彼女は教室のドアに手をかける。
「やかましいわね……一体何が起きてるの?」
ガラッ。
ドアが開いた瞬間、私はぎょっとする。
まるで仁王立ちしているかのように、お姫様がすぐそこに立っていた。
品のよい笑顔で、あら、と声をあげる。
「カワノ先生。お久しぶりです。
もう二度と戻って来ないかと思っていました。」
動じず、カワノ先生は微笑み返す。
「あなたとは久しぶりね。クラスメートと仲良くできてる?メグミさん、クラスの輪に馴染んでるかしら?」
私は彼女のその目に、強気を感じた。
いじめを受けていた時、私は辛さのあまり加害者がお姫様であることをほのめかしたことがある。
その事を気に病んだあげく、メグミもお姫様の手に掛かっているのではないかと疑っているようだ。
先生の疑念は的を射た。
でも加害者自身が白状するわけがない。
「もちろんです、先生。2組はどのクラスよりも仲がいいんです。
皆ちゃんと、メグミさんのこと、クラスの一員として認めていますよ。」
小綺麗に装った笑顔の裏側。きっと人を食ったような笑みなのだろう。
先生は気づいているだろうけど、平穏で表情を崩さなかった。
代わりにじゃあ、と後を継ぐ。
「そのチームワークで、今年の球技大会は優勝を目指せるかしら。」
小脇に抱えているA4クリアファイル。その中には球技大会のことについての書類が閉じられていた。
どうやらホームルーム活動で、チーム編成などの取り決めを行うようだ。
目ざとくお姫様はそれを見て、クリアファイルを無理矢理取り上げた。
「学級委員長ですから、私がやっておきます、先生。
生徒たちの間で、優勝できるようなチームを編成しますから。」
「でも、担任がいないと大騒ぎするでしょ?あなたたち。」
先生がざわつく教室に目をやる。
すると、背後から気配。
カワノ先生の肩に、副担任の女教師、アイ先生の手が置かれた。
「心配無用です、カワノ先生。クラスは私が見てますから。
復帰してもまだ体調が悪いんでしょう?
無理せず、ここは私に任せてください。」
「ですがアイ先生。少なくとも私は担任です。担任である以上、クラスの決めごとにはちゃんと参加しないと……」
懸命な担任の主張は無慈悲に、不機嫌な副担任に遮られる。
「担任だったら、ちゃんと毎日学校に来てクラスの面倒を見てください。
一体何回休んだら気がすむんですか?
担任がそんなだから、生徒が信頼してないんですよ。」
「幾度か欠席した点は謝ります。ご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ございません。」
「私ではなく生徒に謝りなさいよ。」
アイ先生は舌打ちをする。
「慣れない顔がいたら生徒の気が散ります。職員室に戻って、事務の仕事でも手伝って下さい。
私も虫の居所が悪いんですよ。」
「でもそんな、アイ先生…!!」
カワノ先生が反論しようとしたその時、廊下の奥から学年主任の男教師が真っ赤な顔をして走ってきた。
カワノ先生!と呼び掛けながら太った体を懸命に動かしている。
表情からするとひどく怒っているようだ。
また良からぬことでも起きたのだろう。
「あー、あの、カワノ先生」
短距離でも疲れたのか、主任はある程度此方に近づいた後、立ち止まって肩で息をした。
大きく目を開き、ひどく怯えた様子のカワノ先生にハンドサインで職員室に戻るように伝える。
「電話!電話ですよ!いつもの!!先生を連れてこいってうるさいんです!もうこっちじゃ対応しきれませんよ!!」
「あの…これからホームルーム活動なのですが…。」
カワノ先生が教室のドアを指差すが、主任は聞こうともしない。
「あー、いいのいいの!そんなのはアイ先生に任せておけば!早く来てくださいよ!あのうるさい電話を止めてください!!」
カワノ先生はアイ先生を見た。
アイ先生は目をそらし、教室に入っていく。
お姫様はカワノ先生に微笑みかけた。
「早く行ってあげて下さい。」
誰の父親のせいなのか。一瞬先生の顔色が変わる。
お姫様はクスクスと笑いながら私の手を引っ付かんだ。
私は主任に強制的に職員室へ連れていかれるカワノ先生を、見送るしかできなかった。
殺気を帯びたお姫様の声が、耳を貫く。
「二度はないから」