魔王スサノオ降臨

Ⅳ、野望を持った5人の独裁者


スサノオが囚われて2000年以上が経った、戦国時代。
いよいよ、スサノオの計画が実行されます。
配下の中心に、影と呼ばれる者たちがいました。
下級の魔族とは、全く違う位置に属する存在です。
影は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の楔(クサビ)と天照の涙、八塩折之酒(ヤシオリノサケ)を手に入れ、八岐大蛇の怨念を生み出します。

八岐大蛇の怨念に最初に取り憑かれたのが、小田信長でした。
地の底から人間界をじっと観察していたスサノオには、天下統一などには興味はありません。
後の世になって、人間界に降り立った際、一番邪魔なのが、天界の神と通じる神主と人間界に定着している仏教の仏に通じる僧侶でした。
特に、武の力を有する僧侶の軍団は、危惧するところです。
信長は当時、比叡山延暦寺の僧侶達と対立関係にあり、スサノオはそこに目を付けたのです。
そして密かに影を送ったのでした。

影は独裁者の側近に取り憑き、その者に入り込みます。
しかし、影には人を操るような能力はありません。
じっと側近の影に同化し、独裁者のすぐ脇に近寄るチャンスを待つのです。
そして、密かに独裁者の寝所に近寄り、寝ている独裁者の耳横に八岐大蛇の怨念を置くのです。
不思議にも八岐大蛇の怨念は、石のように硬化していた塊から細く柔らかい生き物に変化し、独裁者の耳に向かって動き出します。
そのまま、耳から脳に移動し、脳の機能を支配してしまうのです。

信長を動かす目的は、比叡山延暦寺の僧侶達の殲滅だだ一つ。
他の野望には興味がないので、信長自身が判断を下します。
その一連の動きの中で、僧侶達の殲滅(センメツ)に向かわせるのです。
そして、ついにその時、1571年に比叡山の焼き打ちが実行されます。
信長が、軍勢に比叡山の焼き打ちを命令した瞬間、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の怨念が解き放たれます。
恐ろしい大蛇の姿が、信長の背中から飛び出し、一時の間空中を浮遊し、どす黒い霧の集まりとなるいなや、魔界のスサノオの鎖の1つに向かって、飛び立ちます。
信長と同席していた武将たちは、その信じられない光景を目の当たりにし、恐れおののきます。
しかし、すぐに気を失っていた信長を助け起こし、比叡山の焼き打ちに向かうのでした。
信長自身は今起こった事を知りません。
武将に聞いて驚く中、比叡山の焼き打ちは自分の意思ではないことを自覚するのです。
並みの武将であれば、すぐに命令を取り消すのでしょうが、これも天下統一に使えると即座に判断した信長は、そのまま比叡山を攻撃させ、多くの僧侶を殺害することになります。
1571年、スサノオの右足の鎖の1つが、普通の鎖になってしまいました。

その10年後、2人目の怨念に取り憑かれた人物、豊臣秀吉です。
スサノオは小田信長がキリスト教の宣教師を庇護し出したことに懸念をもちます。
せっかく比叡山の僧侶を殲滅させたのに、またそれに変わる新しい宗教が出現したのです。
ましてや、キリスト教には魔族を退治するエクソシストなる専門家が数多くいるのです。
そこで、2人目の影を、豊臣秀吉に向かわせます。
今回は、キリシタン擁護の信長を無きものとし、日本国内でのキリシタン増加を阻止することが怨念の役目でした。
前回と同様にして秀吉に取り憑いた八岐大蛇の怨念は、まず信長の殺害にかかります。

万人の知る本能寺の変は、明智光秀の起こした謀反ということになっていますが、魔界側の歴史は違います。
中国地方の毛利攻めの最中であった秀吉が、信長のそばで待機の光秀軍の援軍を依頼します。
それを了承した信長に対して、秀吉軍の中から護衛兵として1000騎を本能寺に送っています。
しかし、この時すでに秀吉は毛利と和睦を結び、それを隠して光秀軍を迎え入れました。
その夜、光秀軍歓迎の酒宴の後に光秀を毒殺、秀吉は500騎のみを連れ、本能寺に急ぎ向かいます。
他の秀吉軍は、光秀の配下全てを拘束しました。
秀吉が、本能寺に到着したのは1582年6月2日明方。
そのまますぐに、信長及び僅かな家臣を攻撃し、本能寺の変を完結させます。
この瞬間、2つめの八岐大蛇の怨念が解き放たれ、スサノオの左手の鎖の1つが、普通の鎖に変わりました。

大蛇の怨念が抜けだした秀吉は自分の犯した過ちに気付き、他の武将からの攻撃を防ぐため、策を練ります。
まず、拘束した光秀軍全員を殺害し、鎧兜に軍旗を本能寺に運ばせ、戦死した武将に付けます。
更に、配下の者を光秀軍の残党として放ち、各所でこれを打ち取ったように見せかけたのでした。
本能寺の変は明智光秀の謀反であり、謀反の企み有と報告を受けた秀吉が急遽本能寺に向かった。
しかし、信長救出には間に合わず、やむなく光秀を打ち取り光秀軍を殲滅した。
このように事実を曲げて天下に知らしめ、自らが天下統一を果たしたのでした。
この後、スサノオの目論見通り、反キリシタンは次の徳川の世にまで影響し、キリシタンの弾圧、そして島原の乱へと歴史は進んでいきます。

時代はかなり遡ります。
縄文時代の成熟期、現在の硫黄島付近の海底火山で大噴火があり、南九州一帯に大被害をもたらしました。
南九州に数多くあった集落も壊滅してしまいました。
その時、縄文の人々の大移動が始まり、多くの人々が北へ避難したのですが、船をこぎ出し太平洋に向かったグループもいました。
その中の1部が南アメリカにまで到達したとの伝承があるのです。
太平洋岸にあるマヤ文明の集落から出土した土器が縄文土器とそっくりなこと。
インディオの血の中に、日本人と共通のミトコンドリアDNAが見つかったことなど。
近年、この事実を証明する証拠も見つかっています。

このことは、スサノオも知っていました。
恨みの人種が、外国にも流出したのなら、それも殲滅するのだと。
そして、その頃に栄えたマヤ・アステカ・インカの人々の血にも、当然同じDNA。
その頃、スサノオには喜ばしい報告もされています。
本能寺の変の61年前の1521年、スペイン人エルナン・コルテスが、マヤ・アステカ文明を滅ぼし、多くの人命を奪ったと。
後は、インカの人々です。

そこで、スサノオは1572年にインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロに影を送ったのです。
すでにインカ帝国はありませんでしたが、まだ沢山のインカ人が生活していました。
スサノオの指令を受けた八岐大蛇の怨念をはピサロを操り、当時中央アメリカで流行っていた天然痘の患者を、インカの生活圏に送り込んだのでした。
またたく間に天然痘が人々を襲い、1589年、インカ人の95%の人が亡くなってしまいました。
これでまた、3つめの八岐大蛇の怨念が解き放たれ、スサノオの右手の鎖の1つが、普通の鎖に変わりました。

スサノオの4人目の標的はナチス党のアドルフ・ヒトラーです。
何故、ヒトラーなのでしょうか?
もし、八岐大蛇の怨念がヒトラーに取り憑かなければ、ユダヤ人の大虐殺はなかったでしょう。
ヒトラーは元々ユダヤ人に特別な感情をいだいてはいませんでした。
しかし、ナチス党で頭角を現していく中、党を拡大するために、財閥の後押しが必要だったのです。
そのため、キリスト教が主のヨーロッパでは、評判の悪いユダヤ人を攻撃することは、多くの人々に受け入れられました。
1935年9月にナチ党はニュルンベルク法を制定し、ユダヤ人の社会的地位を奪います。
この政策はドイツ国民だけでなく、ヨーロッパの諸外国にも概ね公表でした。
しかし、本来ならここまでの政策で終っていたのです。
八岐大蛇の怨念が、取り憑かなければ。
取り憑いた怨念は、更にヒトラーを、ユダヤ人大虐殺という、狂気の人に変えていきます。

では、何故、スサノオがユダヤ人の大虐殺に導いたのでしょうか?
それは、日本人のルーツはユダヤ人と大きく関係しているからです。
古代イスラエル王国がBC928年に、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北イスラエル王国はBC722年にアッシリア帝国に滅ぼされます。
この時、北イスラエル王国を治めていた10支族はイスラエルの地から連れさられ、以後行方不明になります。

その約60年後、日本の建国となるのですが、この建国は、北イスラエル王国のリーダーであったエフライム族が中心となって行われています。
それまで、大した技術も能力もなかった固有の日本民族に、政治・医術・土木建築・占星術|(暦)等の技術を伝えたのがユダヤ人なのです。
そのために、文化・言語・風習等、多くのことで、日本とイスラエルに酷似が見られるのは当然のことでしょう。
日本人と古代ユダヤ人の共存が、日本の建国を導いたのです。
その後の、日本民族には日本とユダヤの両方の血が流れることになります。

スサノオにとっては、このユダヤ人こそが日本人の人間の素であり、殲滅すべき人種なのです。
スサノオは大蛇の怨念でヒトラーを操り、ユダヤ人の大虐殺の命令を発動しました。
これでまた、4つめの八岐大蛇の怨念が解き放たれ、スサノオの左足の鎖の1つが、普通の鎖に変わりました。
ここでついに、スサノオの動きを封じている2重の鎖が1本になってしましました。

南アメリカとユダヤにまで影を送ったスサノオですが、ついに日本人の大虐殺を手掛けます。
5人目は、アメリカ合衆国大統領のトルーマンでした。
第2次世界大戦、敗戦が決定的な日本、本土にいたのは高齢者と女性、そして子供ばかりでした。
そこに、原爆を1945年に2つも投下する命令を下したのです。
原子爆弾のきっかけは、1942年、マンハッタン計画を秘密裏に開始させたルーズベルト大統領です。
しかし、戦況がはっきりしてきた頃、ルーズベルト大統領が急死、トルーマンが新大統領に選出されました。

この頃、アメリカ政府内でも、原爆投下否定論が大勢を占めていました。
ドイツ降伏後に、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えています。
1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランク他6名の科学者が連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出しました。
その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案しています。
しかし、暫定委員会の決定が覆ることありませんでした。
既に、トルーマンには大蛇の怨念が取りついていたのです。
更に1945年7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書を提出したが、影達の画策により、原爆投下前に大統領に届けられることはありませんでした。
軍人では、アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを1945年7月20日にトルーマン大統領に進言しています。
アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下ではなく、ロタ島への爆撃を示唆しました。
また政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することには反対する者もいたのです。
これらの大勢の進言や嘆願も、大蛇の怨念に操られている大統領には無意味でした。
そして、トルーマンは、ニューメキシコ州での核実験成功により、日本への原子爆弾投下を命令し、ここに全ての原子爆弾投下阻止の試みは潰えたのです。
1945年8月6日に広島、1945年8月9日に長崎へ、原子爆弾の投下が行われたのです。
長崎への投下命令を下した直後、これまでと同じく八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が復活、トルーマンは意識を失いました。
3日後の意識が戻った時、我に返ったトルーマンは中止の命令を出しましたが、既に投下された後で、もうどうしようもありませんでした。

ここに、5つめの八岐大蛇の怨念が解き放たれ、スサノオの右足の鎖の1つが、普通の鎖に変わりました。
ついに、スサノオの動きを封じているはずの右足の鎖の効果が失われてしまいました。 
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