柴犬主任の可愛い人
 
 
あれ? と一瞬首を傾げた後何かを納得し、主任は口角を上げたままこちらへと歩み寄ってきた。


「ありがとうございます。神田さん」


「いえ。母が皆さんでどうぞ、とのことだったので」


「これ。美味しいですよね」


「っ!!」


何を言い出すこの主任っ!! ――なんとなく、まるで社内恋愛をひたに隠す男女のように素知らぬ顔で職場では接する、と、確認はしなかったものの、伊呂波を秘密にしようと提案してきた主任だからそうしてくれるものだと思ってた。勝手に。そう、勝手にだから浅はかなのは私だったんだけど。


じわりと背中に嫌な汗を一筋流す私をよそに、主任は広瀬と談笑を始めてしまった。この干し芋にはどうやらデラックスバージョンがあって、それは蕩けるように柔らかく甘く、そちらも美味なんだと自慢をしてて――そう。先日伊呂波で渡した干し芋はデラックス。だって袖の下だったからね!!


意外に芋好きだったらしい広瀬が情報に食いついた途端、始業五分前だからと、主任は軽やかな足どりで自分の席に戻っていった。すぐには着席せず、見晴らしも良くない窓の外の景色を見下ろし……その後ろ姿の肩は震えていた。なんだかとても愉快そうに。




その日は一日中、絶えない電話対応の合間に、広瀬からデラックスをよこせと請求されながら過ごした一日だった。主任から、朝のような接触はなく、伊呂波で出合う以前の主任と変わらない態度で接された。


……別に、主任と飲み仲間になったり半分こ同盟を結ぶのはやぶさかじゃないけど。そこで馴れ合った雰囲気を職場に持ち込むのは嫌だなあ、ならば同盟は締結しようと考えてたところ、ちょっとだけ、最初の最後として私をからかったのだと、後日伊呂波で顔を会わせた主任が言うものだから、上司だとか年上だとか一切を忘れ、怒った。半分こにしようと注文した茄子の揚げ浸しを独り占めして食べてやった。


「僕だって嫌ですよ、そんなの。秘密だから楽しいんです」


「さようですか……」


お互いに職場と伊呂波で望むものは変わらないらしく、改めて意思の疎通を計り、振り上げた拳も下ろした。


そうして、主任と私の秘密は当分の間、月に幾度かの秘密を重ねていくこととなる。







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