柴犬主任の可愛い人
2・その誘惑には抗えません
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「突然だが、青葉ちゃん」
「ほぁい。にゃんでひょうか、りょうひゃん」
八月初旬、湿度マックスな雨降る夜の、三ヶ月間通い慣れた伊呂波でのこと。沈黙を破るように、店長さんからお誘いを受けた。
勢いよく顔を上げた拍子、耳元からはらりと落ちた髪が思ったより濡れてたのは、一旦止んだ雨が駅から歩く間にまた降りだしたから。取り出したハンカチで髪を一束握った。口に含んでた白和えを咀嚼し終え、改めて店長さんに向き直る。
「……失礼しました。はい。なんでしょうか、亮さん」
最近、やっと、やっとだ。店長さんから私への人見知りがほぼ消えた。三ヶ月の間通い詰めた甲斐があった。女将さんによれば早いほうだという。どんだけシャイだよとは思ったけど、内心だけの叫びに留めておこう。
週に一度か二度、ここ伊呂波によって、私の胃袋は健康的な食事を摂取出来てる。家呑みや、毎日コンビニやカフェで買ってた飲み物、惰性で毎月購入してた雑誌数冊を見直せば、その外食費は負担にならなかった。貯金に回せばとも考えたその金額は、けれど新たな出会いの人達との会話が精神衛生に良かったから、そうはしなかった。
あれから、泣いて泥酔いしてお詫びに伺うような失態はやらかしてない。料理と少しのお酒を美味しく嗜み、店長のことは亮さん、女将さんのことは華さんと呼ぶようになり、なんだか伊呂波にも馴染んできた。二人とも、私を妹のようだと嬉しいことを言ってくれ、青葉ちゃんとお二人から呼んでもらえるようにもなった。
お盆の予定を何気ない会話の中で訊かれ、他のお客もいなかったことから、私は連々と述べてしまった。
もう私は大丈夫だから答えてしまったその内容は、しかし亮さんにしたら戸惑うものだったらしい。それが、『突然だが、青葉ちゃん』の前にあった沈黙の原因となる。