柴犬主任の可愛い人
そこに居たのは、もう別れて一年以上経つ、元彼だった。
会うのは、婚約破棄された夜以来。繊細そうな雰囲気は相変わらずだったけど、その顔は少し精悍さを増して、少し、知らない男の人みたいだった。
「青葉……」
「っ、純弥……どうして……」
スーツ姿の元彼だけど、今日会社はどうしたんだろう。私は定時ダッシュで帰ってきたし、あっちの会社からもここは近いわけじゃないから、こんな早くに着いてるのは時間的に無理がある。
「あの……青葉と、話がしたくて」
上がっていいか問いたい気持ちをその表情だけで汲み取ってしまうのは、やっぱり六年も付き合ってたからで……でもそれは受け入れられない。私たちはとっくに別れてるんだし。
話すなら外だ。
「……」
「あ、青葉……」
「お店……」
「っ」
「任せてもらえる?」
「もっ、もちろんっ」
ありがとう、と呟かれたのに気付かないふりをする。動揺して上手く動かない指を悟らせないように気を配り、私はついさっき通り過ぎてきた伊呂波に電話をかけた。
家なんか絶対に嫌だ。たとえどんな話があっても。二人きりは耐えられないけど、衆人環視な場所でする内容でも、きっとないんだろう。元彼の顔はそれを表している。
だから、恥をしのんで伊呂波の個室が空いてるか確認をした。電話で予約なんて初めてのことで華さんは驚いていたけど、私の声色が普通じゃなかったのか、スムーズに予約を受けてくれて。
目の前で電話したのは、牽制だ。この人が暴力とか暴言とか、危ないことはないだろうけど、こちらのテリトリーだとプレッシャーをかけた私は、いったい何に怯えてるんだろう。
「荷物重いの。置いてくるからそこで待ってて」
元彼をその場に残して家の中に入る。ぼやけた脳で挑むことじゃないから、効くかどうかはまだ若干不明のアレルギー性鼻炎用のカプセルを取り出した。
コップ一杯の水で薬を飲み干すと、体内を通過していく際、心臓が早い鼓動を打っていると気付く。落ち着くまで待とうとしたけど、それは簡単に治まっくれるものじゃなかった。