柴犬主任の可愛い人
――……
数分の道中は、それはそれは静かなものだった。元彼が私に向かってごめんと声を出し、それが何に対してのごめんなのかわからなくて反応の機会を失う。
隣を並んで歩いてた以前とは違い、私が伊呂波までを先導する。その三歩後ろを歩かれるのを、助かるだけの感情でいられなかった自分がいて、まだ引きずってるのかと落ち込んだ。
時刻は夜の七時。電柱の上部にある街灯を意味もなく数えながら、朧な春の夜に狂わないよう拳を握りしめる。
「こんばんは……」
暖簾をくぐり、格子で仕切られたハンガーラックに今日はコートを掛けなかった。ベージュのその春コートは、先日華さんと真綾ちゃんとお出掛けした際に一目惚れしたもので、ちょっと可愛すぎるかなとは悩んだけど結局は買ってしまった。少し光沢のあるつるつるした生地は頬擦りしても気持ちがいいけど化粧がつくからしない。
「いらっしゃいませ」
店内には常連のサラリーマンの方が三名いて、決して喋りはしないけど、私も顔を覚えてる人ばかりだった。向こうもそうなんだろう。私の後ろに所在なげに立つ元彼を見て、いつもと違う男じゃないかと一人の常連がそんな顔をした。別に、柴主任は主任だしいいじゃないか。そしてあなたには関係ない。
柴主任は、今日はいなかった。まだ広瀬と話してたりするのか。別に、いつも連絡を取り合うわけでもない伊呂波への来店を、今日だけ確認するのもおかしな話だ。
ちょっとだけ、柴主任にこの状態を見られるのはどうなんだろうと思ってはいたから、ほっとする。でも、ここを選んだ時点で知られてもいいとは思ってる。どうせ情けないとこは散々見せてしまってるしね。
「亮さん華さん。今日はすみません」
人見知りが発動したのか、亮さんは何も言わずに会釈をする。言葉を発したのはいらっしゃいませだけだった。
「ご予約ありがとう、青葉ちゃん。お部屋、今日は青葉ちゃん専用よ」
「ありがとうございます。でも、すぐに終わりますから」