柴犬主任の可愛い人
上がり框でショートブーツを脱いで個室に入る。中の床の間には桜が活けてあって、週末に汐里と約束してたことを思い出した。
「……」
「……」
華さんが熱い緑茶を運んできてくれてから、かれこれ何分経ったかわからない。話を――そういえば、きっかけは私がほとんどだったかもしれないと、思い返す。
いつも、元彼……純弥は、ぽんぽん飛び出す私のどうでもいい話を嫌がりもせず、どころかありがとうとまで言ってくれたこともあった。自分はあまり言葉を上手く紡げないから、青葉のそういうところに助けられる部分も大きいと。
大口を開けて笑うようなタイプじゃない人だったけど、きちんと観察していれば喜怒哀楽を出していたし、私を好きだとちゃんと、伝えてくれていた。
プロポーズから別れるまで、純弥は、気持ちを飲み込むことは多かったっけ?
当時浮かれていた私に訊ねても、そんな大切なことを覚えているはずはないけど……。
「……」
「……、ちょっと、お手洗い……」
けれども、純弥が話したいことを汲み取って促してあげられる余裕は今はない。それにダークサイドが囁く。そこまでしてあげることはないんじゃないか、正座して太ももの上に置いた拳がスーツのズボンをくしゃくしゃに握っていても、それは私が気にすることじゃない……って。
襖に手を掛ける。静かに開けたけど、気付かれないはずはない。そこには接客をしながら私を心配する亮さんと華さんがいて、来たときより二人減った常連客が残り一人、こちらから一番遠い入り口付近のカウンターで静かに呑んでいた。
「青葉ちゃん、大丈夫?」
華さんが私のおでこに手をあて、体調を気遣ってくれる。自覚してないけど、そんなヤバい顔をしてたんだろうか。
そんな顔を、私は純弥に見せてしまっていたのかな。あなたに振られて私は今もこんな状態です、みたいな。
それはちょっと、悔しい。動揺はしてるよ。けど、そんなふうには思われたくはない。