柴犬主任の可愛い人
――……
伊呂波の出入口を出たところから純弥を見送る。
ごめんとありがとうを何度も繰り返し、柴主任にも頭を下げ、ご迷惑をお掛けしましたと亮さんと華さんに謝罪をして、キレた私が少し落ち着くのを待ってから、純弥は席を立った。
ぐずぐずと音を立てる私の鼻は、指の背で穴を押さえていないと非常にまずい事態になってしまうだろう。
「泣いてもいいんですよ?」
純弥を見送る私の隣には、柴主任がいつもより近い距離で立っている。
「……これは、花粉のせいです」
「そうですかそうですか」
「疑るなら殴りますよ。まだ私は気が立ってるんですから」
「青葉さんは力強いですね。さっきの捻り上げは素晴らしい威力でした。戦闘能力を計測する機械をこんなに欲したことは、僕の人生でないと思う」
「もっかい捻りますよ」
「嫌ですよ」
「だったら……手、離して」
「もう少し。ほら、あいつが角を曲がるまで。――仮にも僕は青葉さんの恋人なんだから」
「っ、その設定もう解除!!」
私の片手は、さっきからずっと、啖呵を切る私の服の袖口にあった柴主任の手が離されてから、何故かずっとその代わりみたいに握られている。
恋人(偽)の証だと二度目の、私だけに響くトーンが耳を掠めていき、抵抗出来ずにするすると握られてしまったのだ。
角を曲がる際、純弥が最後に私を振り返っていったかどうかなんて、潤む目には映らなかった。姿が見えなくなり、私の手はようやく解放される。
「……余計なことを、してしまいましたか?」
隣を見上げれば、さっきまでの恋人(偽)の立ち振舞いから威圧感を抜いた、柴主任の下がった眉と細く長く吐かれる息遣いがあって。役者じゃないんだから緊張もするよね。
「いいえ。正直助かりました。……悔しいけど」
「悔しいは余計です」
さっき個室で胸の中に包まれたときの、早鐘の心臓は治まったんだなと安心し、私のファンデーションが付いてしまった柴主任のワイシャツを見つけて酷く申し訳ない気持ちになってしまった。