蜜愛フラストレーション


その日は少しの残業で帰宅出来ることになり、人もまばらなロビーをひとり歩いていた。

あのあと優斗からメールが入って、“迷惑かけてごめんね”という返信しか出来ず。かえって彼を心配させてしまったかもしれない。

このまま彼のマンションに行きたくなる心を戒めると、正面玄関を見据えて前に進んで行く。

既に空は暗闇で覆われ、ビル群から漏れる無数の明かりが街を彩っていた。日常的なその光景も、今日は孤独感を一層募らせていく。


「萌ちゃん」

そこで背中に声をかけられる。振り向いた先にはユリアさん、もとい百合哉さんの姿があった。

ユリアさんが迎えにこられない時は、彼女の秘書さんが来て下さっている。ユリアさんも同居を開始した日以外は会社に現れていないので、少し驚いてしまった。

お洒落なスーツ姿に髪を後ろで束ねた百合哉さんが腕を広げたので、私は駆け寄って抱きつく。

もちろんこれに性的な意味はなく、百合哉さんにとっても同じ。彼女のお店でハグし合うこともあり、優斗が笑いながら引き剥がすのが恒例だったりする。

「アイツが心配し倒してる。辛かったね」

名前を出さなくても誰のことか分かる。やはり優斗は変わっていない。場所を弁えた百合哉さんの言葉に触れ、思わず泣きそうになった。


「萌ちゃん、何してるの?」

その刹那、後方から聞こえた声に虚を衝かれる。それは昼以降、徹底的に避けていた松木さんのものだ。

身を固くしたことが伝わったのだろうか、百合哉さんの腕の力が少し強まった。

「こんなとこで何してるの?俺、諦めないって言ったよね?それ、嫌がらせかな?」

振り向きもしない私を咎めているのだろう。やけに苛立った声で詰問してくる松木さんに恐怖心が募っていく。

最近の松木さんは行動や発言が明らかにおかしい。今それは如実に現れており、心の中で警鐘が鳴り続けていた。


「“うちの”大事な萌に手を出すのは止めてくれる?」

「ハッ、うちの?萌ちゃんの彼氏ってアンタじゃないだろ?」

百合哉さんの牽制をもろともせず、むしろ核心を突く彼の発言に緊張が走った。……なぜそれを知っているの?


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