蜜愛フラストレーション
「ん?俺ももう帰るから久々に飯でもどうかと。ほら近くに出来たチーズ専門店、行ってみたいんだよね」
「あー、すみません。今日はちょっと、」
松木さんとは実務面で関わることが多く、何かトラブルなどが起きたのかと聞き返せば、実際はなんとも魅惑的なお誘いだった。
そのチーズ専門店のラクレットはグルメな同僚から特にラクレットが絶品だとお勧めされ、チーズ好きな私もいつか行きたいお店のひとつだった。
「そっか、じゃあまた連絡して?こっちはいつでも良いよ」
「本当ですか?でしたら遠慮しませんよ?」
体育会系のがっしりした体格の松木さんを見上げて茶化す私に、「どうぞどうぞ」と返してくれる。とても親切で明るい先輩だ。
美味しい食事を彩る、楽しい会話は時が経つのも早い。疲れた身体を癒すのにぴったりで、もはや天秤にかけるまでもない。しかし、その魅惑的な誘いに迷いなく断りを入れてしまう矛盾に苛まれる。
「本当にすみません。またよろしくお願いします」
「気にしなくて良いよ。じゃあお疲れ!」
「はい、お先に失礼します」
まして今回も北川氏の案が採用されたことを分かっていて、私を励ますつもりで誘ってくれたはず。気遣って下さる良い先輩なのだ。
ゆえに罪悪感を抱えながらエレベーターを降りると、部署へ戻るという松木さんとはその場で別れた。
松木さんの後ろ姿を見送った私は一息つくと、ついでだから化粧直しをしようと職場とは反対方向にある更衣室を目指して歩き出す。
すでに退社している人は多く、その静寂を示すようにコツコツ、と規則的なヒール音が鳴る。その足音で紛らすようにして、「……やだな」と思わず本音を漏らしてしまう。
それは惨めな自分の現状が滲んだ情けない声音で。このひとり言とともに、虚しく中空に舞い散って、ひっそり溶けてしまえたら楽になれるのに。そう思わずにはいられなかった。