蜜愛フラストレーション
大人然とした対応を取るべきだと分かっていても、正常とはほど遠い今はこの状況を甘受してしまう。
「っ、」
この胸に縋りついて泣き叫びたい。正直に身を預けてしまうと、いつしか身体の震えも止まっていた。
しばらくして無言で距離を取った彼がなぜか私の横へと回ってきた。
そして、その場に座り込む私の膝を掬い背中を支えると、一気に抱き上げられた。
予想外の出来事に悲鳴を上げようとしたが、ここでも声なき声に阻まれる。
急に視界も変わり不安定な状況に慄きながら、咄嗟に眼前のスーツのジャケットを掴んでいた。
そろりと視線を上げると、気遣わしげな顔でこちらを窺っていた彼と目が合う。
心もとない中でどうにか頬を緩めると、彼からは悲しそうな笑みが返ってきた。……こんな顔をさせたくなかったのに。
「じゃあ、ひとまずお願いします」と言いながら、視線のみを後ろへ向けた優斗。
そこで彼がわざと位置を変え、私が背後を見なくて良い配慮をしてくれたことに気づく。
「ええ、病院に向かいましょう。私も同行しますので」
「紀村、ちょっと待て。これを俺ひとりで片づけろと?」
「そうですね、お願いいたします」
課長を一蹴すると、ヒールを鳴らして来た紀村さんは先回りで試作室のドアの前に立った。
「それで斉藤さん、代わりに貴女の荷物を取りに行かせて欲しいの。
その状態で更衣室に入るのは目立つわ。ここは私のことを信用して貰うしかないけど、更衣室の鍵を借りられない?」
こちらをジッと見つめながら、淡々とした口調で問いかけられた私はひとつ頷いた。
情けないけれど、正直なところ今は社内の人を信用するのが怖い。
五十嵐さんの嫌がらせに遭って以降、ロッカーの鍵は常にポケットに入れ持ち歩いているのだ。今は役に立ったが、自分の警戒すべきところが間違っていたとまた気づかされる。
彼女だって初めはややあった。内面もよく知らないのに、不自由な状況でスカートのポケットを探り、小さな鍵を手渡していた。
「では北川さん、ここで少々お待ち下さい。すぐに戻りますので」
「ああ、そうですね。よろしくお願いします」
固く頷いた紀村さんが颯爽とした足取りでその場をあとにした。