蜜愛フラストレーション


案の定、女性医師からは「念のため数日入院して下さい」と言われてしまう。

それでも素直に頷くことは出来ずにいる。——明日は大事な日、だから休むつもりはなかったのだ。

表情筋の動きも鈍く、声も出ない今。けれども涙は静かに頬を伝い、泣きながら唇を震わせてしまう。

この1ヶ月、紀村さんや第1グループの人と一緒に作り上げた新作の合否が下る。その大切な日にまさかのドクター・ストップ。申し訳なさと自分への苛立ちで拳を握った。

首さえ振ることも忘れていると、ずっと見ていた紀村さんが嘆息し、鋭い視線をもって口を開いた。

「医師の判断に従うべきね。会社なんて誰かが欠けても回るものだし、来たらかえって迷惑。
あとは上が食べて決めるだけ。おっさん連中の戯れ言なんてね、聞いてたら余計にストレス溜まるっての。
足りないところは私がカバーしとく。当然その他の援護も入るから心配しなくて大丈夫よ。抜け穴なんかないし、一分の隙も見せないわ。となれば、あなたが今すべきは治療に専念することでしょ?
そうそう、間違っても病院を抜け出すとか馬鹿なことはしないでここで大人しくしてて」

「……」

こちらを捉えた眼差しは強さを秘めていて、有無を言わせぬ言葉に頷く外なかった。

諸刃の剣にも等しい私だからこそ、何もしてはいけない。それを気づかせてくれた言葉こそ手厳しいが、言われて当然だ。

「では斉藤さん、少しだけよろしくね」

話が纏まったところで物腰の柔らかい女性医師が微笑むと、ベッドのそばに置かれた椅子に腰を下ろす。代弁者となる紀村さんも着席したところで診察開始。

簡単な問診には首を振ったり紙に書いて答えられたものの、経緯を紀村さんから説明して貰うために同席下さっているのだ。

ひと通り見た医師からは、まず外傷のある箇所のレントゲンを撮り、切れている口内を診察するとの指示が出た。

医師が部屋を退出して暫くすると、やって来た看護師に呼ばれ、病棟を出た私は放射線科と口腔外科をはしごする。

その間に私のわがままを聞き入れてくれた紀村さんが、優斗たちを呼んで伝えてくれているだろう。

空白の間にあえて彼らを病室に呼ばなかったのは、私が不在中に仕事に戻って欲しいと伝えて貰うため。

多忙な優斗を中抜けさせ、百合哉さんの秘書さんの手まで煩わせたのだ。——これ以上、彼らを留め置くわけにはいかないからと。


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