蜜愛フラストレーション
萌がいない人生はもう考えられないというのに。ひそかに用意したプロポーズの指輪は、いつまで経っても出番を見出せずにいた。
それでも、傍で守れるほど近くにいてくれれば充分。同時に専務の内偵を続けていると、1年などあっという間に過ぎていた……。
「そろそろシャワー浴びて来るか」
やけに疲れきった声音が静寂に落ちる。そこで顔を上げた俺は、向かい側であくびをする課長を捉えた。
あれから萌が寝付くのを見届けてから病院を出た俺は、その足で課長の自宅に向かったのだ。
様々な事件の処理はもちろん、最終仕上げの確認作業に追われ、気づけば窓の向こうは白み始め、電車も始発が走り始める頃だろう。
「疲れてますね」
椅子の背もたれに体重をかけて嘆息する彼に苦笑すると、百合哉を彷彿とさせる鋭い視線が返ってきた。
「当たり前だろ!聞き取りと裏付け、そこに自称かよわい女を抑えるって俺に対する苦行だ」
「あいにく、その紀村さんは萌の恩人なんで」
ちなみに、ここへ先にきたのは病院を出た俺のほう。先に仕事をしていると約一時間後、うんざりした表情で空木さんが帰ってきたのだ。
かねてより、専務の件については課長宅で仕事を行っている。
職場で余計なアトを残したり、矢面に立つ課長と中立派を装う俺が裏で繋がっているとバレないための手段。
専務サイドに情報が漏れないように細心の注意を払って。月花家が所有する物件を転々としながら、ふたりでひそかに専務の情報を集め続けてきた。
昨夜も集め続けた膨大なデータを洗い直し、取りこぼしがないかチェックしていた。
「優斗、オマエどうする?」
「俺は一旦帰って着替えてから出社しますよ。萌のところに寄りたいけど、それだと会議に間に合わないし」
「つかオマエ、悪い顔してるぞ」
「空木さんこそ、極悪人の顔ですよ」
互いに、徹底的に専務を追い詰めようとしているのは仕事だけが理由じゃない。
空木さんは後輩のこと、俺はもちろん萌を傷つけられたこと。悪人を断罪するのに私的感情を含めて何が悪い?
——こうなれば、些事であろうとも容赦しない。今度こそ息の根を止めてやるつもりだ。
「じゃああとでな。遅刻すんなよ?」
普段は誰に対しても平等で落ち着き払った態度を見せる彼だが、実は弟の百合哉より喜怒哀楽が激しい。
これもすべて業務を円滑にこなすための手段。情に厚くもあるが、敵に回せば冷酷になる。
そんな空木さんの家を出た俺は、マンションの地下駐車場に停めていた車に乗り込んだ。
萌は眠れているのか。その心配をしながら、静かな早朝の幹線道路を走行しながら自宅へと向かった。