蜜愛フラストレーション

人を懐柔しつつ自らの才能を発揮する彼は、誰もが敵わないと認める実力の持ち主。ゆえに、相対しようにも難しくて不甲斐なさを感じるのは常にある。

視線を落とす私の肩にふと彼の手が置かれた。反射的に顔を上げると、こちらを見据えたその眼差しは暖かみのあるもの。
そして濡れたままの唇の端まで親指でそっと拭ってくれた。

その緩慢な指の動きに力めば一笑するので、私もつられるように彼の唇にそっと触れると、移してしまった口紅のあとを優しく拭う。

この破壊力満点な笑みはまるで光芒を放っているようで、先ほどまでいじけていた暗い心はその光に呼び止められてしまう。
あの時、踏み出す機会を逸した私こそが彼を苦しめているのに、また言い訳をしてこの場に踏み止まってしまうのだ。

紳士的な優しさとともに可愛らしい面を持っている人だから、誰よりも幸せになって欲しいと願っているのに。愛しいという感情に負けて過去を断ち切れず、一緒にいることで余計に彼を傷つけている……。

「悪い、もう少し掛かるから近くのカフェで待っててくれる?」
「いえ、気を遣わせてしまうので先に行ってます。あの、慌てなくて良いですよ?」
「分かった。なるべく早く行くから」

首を横に振って遠慮する私に、どことなく残念そうな表情を見せた彼は手元の洒落た腕時計を一瞥した。

「はい、ちゃんと待っていますから」

仕事中は愛想が良くても踏み込ませない人だと評されている。だからこそ、この特別な微笑みを前にすると本音もひた隠しにするのは難しい。こんな戯れが名残惜しくなるくらいには。

それでも日頃の多忙ぶりを見知っているから、我が社のエースを煩わせる対象でありたくはない。そして、好きとは言えなくても心配くらいは許して欲しい。

こちらの面倒な感情が通じてしまったのか、彼は私を離すと「ありがとう」と穏やかに笑って部屋を後にして行った。

しばらく経ってから私も部屋を出ると、当初の予定どおりに更衣室へ向かう。
更衣室の入口のドアを開けると誰もおらず、静かに扉を閉めるとそのドアにぴたりと背中を預けた。

この無音の閉鎖的な空間が孤独を呼び覚ます。それを頭から追い払うように自嘲すると、ぼんやりとして宙空を仰ぎ見た。

あれほど浮かされていた心と身体の熱も今はもう冷め切っていて、後悔と虚しい現実がぐるぐると渦を巻いて襲ってくる。

このあと会うまでに少しでも早く、いつもの自分を取り戻さなければ。まるで呪文のように心に何度も言い聞かせてしまう。

選択肢は与えられているのに、その答えを濁し続けることを許してくれる、優しい彼のそばを離れられないのは私なのに。
この中途半端な状態が辛いなんてどの口が言えるのだろう。

そこで身勝手な感情を振り切るように頭を振った。
いつまでも甘い時間を引き摺っていたら、あの時の決意と自制心が薄らいでしまう。

——何度も呑み込んできた『好き』という感情は、こうして危ない綱渡りをして続いているのだから。

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