蜜愛フラストレーション
そこまで律儀に守らなくても、彼がいなければバレないのでは?と思われるだろうが、そこに落とし穴がある。
じつはこのビルには、ツルツルな階段を歩くとガラスのような硬質的な音が鳴る。一方、エレベーターは目的階に止まる度に各店舗へ客の到着を知らせるという、私にとっては迷惑な機能があるのだ。
さらに店のオーナーと彼は知り合いなので、私が階段とエレベーターのどちらで来たのか、毎回報告させるあたりここでも抜かりはない。
とはいえ、素直な聞き分けと可愛さに欠けている私は、一度だけ彼との約束を反古にしたことがある。
混み合って中々やって来ないエレベーターに焦れ、階段を使って入店した私をその日もにこやかに出迎えてくれたオーナー。しかし、遅れて現れた彼にそのことを告げてしまったのだ。
報告を聞いた彼と目が合った瞬間、私は即座にやらかしたと察した。
そのハンターは、『この後楽しみだね』と迫力ある笑顔を向けてきたのだから。
その後、ショパンのスケルツォ第2番の曲が延々と脳内で流れる私を連れて店を出た彼によって、予想どおりに手痛い目に遭ったので、二度と同じ轍を踏まないと誓っている。いや、学習させられたというべきか。
ちなみに学習内容については、“翌日動けなくなるほどの情交”でどうかお察し頂きたい。
それに、『萌が怪我するのは絶対に嫌だから、分かってくれる?』とトドメに言われたら頷かない方が無理だ。
それから階段を利用していないのも、彼が過保護なくらい心配してくれているから。せめて親切心を裏切ることはしたくない。
こうして、今夜も約束を守る私を乗せたエレベーターは上昇してすぐに二階で停止する。
エレベーターを降りると視界に入るのは、“Elegie”と記された金属プレートの小さな看板。金色のドアノブに手を伸ばすと、シンプルな黒色をしたドアを開いた。
扉の向こうは外の喧騒と蒸し暑さが嘘のように、心落ち着くひっそりとした空気に満ちている。
ドアを閉めて正面に視線を移すと、バーカウンターに座っているよく知る人物と目が合った。その人は静かに席を立つと、優雅な足取りでこちらにやって来た。
「いらっしゃい、萌ちゃん」
「こんばんは、ユリアさん」
笑顔で挨拶すると、麗しい微笑を見せてくれたユリアさんが私の顔を覗き込んでくる。
「はい、今日も合格よ。ちゃんと報告してあげる」
「……もう懲りたのでエレベーターしか使いません」
今夜も私の平凡な顔を観察したのち満足げな表情に変わったユリアさんは、この店のオーナーさんだ。つまり毎回、北川氏に情報提供する密告者でもある。
「萌ちゃんもアレに惚れられて災難ね、本当に」
意味深なひと言とともに妖しげな視線を送ってくるあたり、彼とどことなく性質が似通っているなと思う。