蜜愛フラストレーション
美容室で使う薄手の淡いピンク色のクロスを着たら、肩をぽんぽんと二度軽く叩かれる。これが“始めるよ”の合図だ。
ユリアさんはまず後頭部の辺りで後れ毛なくまとめていた髪を下ろすと、斜め下がりの前髪を小さなクリップを使いポンパドールにした。
目の前の大きな鏡には鎖骨ほどの長さの黒髪を下ろし、おでこを丸出しにした私が映っている。
いつも思うのだが、どんぐりのような形の目と痩せても丸い顔が際立つとますます童顔に見えるので、この髪型はあまりしたくはない。
今それを些細な悩みに感じるのは、目の下のクマに加えてベースメイクの表層崩れよろしく状態であるから。会社で化粧直しをして来たのに、ここへ来るまでの暑さと皮脂に大敗している。
ユリアさんは嘆く私の頬に触れると、「学習しようよ」と呆れ顔を見せた。
「乾燥がひどすぎてインナードライが進むのよ。ちゃんとケアしないとアラサーなんだし、後々苦しむよ?」
「砂漠地帯のデスクに身を投じているせいですね」
空調が私の席の天井に設置された環境下にあるので、年中乾燥との戦いを強いられているのだ。
おかげで夏も冬も風にさらされるため、デスク上にはUSB接続式のものと紙で作られたエコな加湿器を置いている。その心許ない加湿対策に効果を求めるのが図々しいのだが。
「だったら、フルフェイスのヘルメットがいいわよ。それなら化粧や髪もしなくて良いし、ズボラな萌ちゃんにぴったりでしょ?」
「変質者はもれなく締め出しくらいますからね」
「ズボラより羞恥心が勝るのね〜、はい目ぇ閉じて」
適当な返しをするその手にはクレンジング液を染み込ませたコットンがあり、私が目と口を閉じると慣れた手つきでコットンを肌の上を滑らせ、溶けかけのメイクをオフし始めた。
肌色に染まるコットンを変えながら優しく肌の上を撫でていく。また滲んだりヨレた目元には綿棒を使用し、アイメイクを落とさないよう丁寧にリペアする。
顔つきの変わったユリアさんの手さばきには毎回、感心させられるばかりだ。
終わったという声掛けで目を開くと、アイメイクは朝のままに、目の下のクマとくすみが露わとなったアラサーの実態が鏡に映し出されている。
そんな私の傍らで、ドレッサーの前に所狭しと置かれたメイク道具の中からスキンケア品を手にしたユリアさんを一瞥する。
「毎回この状態でユリアさんの美肌を見ると、切なくなるのは何でだろう……」
「知らないわよ。疲れてるのは分かるけど、肌は体調のバロメーターでもあるし外からも労ってあげないとダメよ?それに、萌ちゃんは白くて綺麗な肌してるけどちょっと肌が薄いしね」
「はい、気をつけます」
「普段のケアを丁寧にするだけで違うから。ほら、こんな風にね」
鏡越しに目を合わせてアドバイスをくれるユリアさんは、人肌に温めた高級化粧水と美容液の上にクリームを塗り重ねていく。
美しいカクテルを作り出す器用なその手で優しくフェイスマッサージまでしてくれる。
高級化粧品のローズ系の香りも相俟って、あまりの気持ち良さにうつらうつらとしてきた。