蜜愛フラストレーション
しばらく顔を見合わせたのち、彼の視線が真横へと向かいこう言った。
「はい、ユリア交代」と。
そのひと言でカクテルを一気に煽ったユリアさんはグラスを手にしたまま立ち上がる。
「さっき人のことスルーしたでしょ?」
「いや?萌しか目に入らないんだよね」
彼は皮肉交じりのユリアさんに悪びれるそぶりもなく、さらりと私の動揺を誘い出す。
「萌ちゃん、前言撤回する。“コレ”に砂糖数粒ほどの同情をした私があほだった!」
「同情するより今、萌が飲んでるヤツ頼む」
「シャンパンボトルごと飲め」
「美味いカクテルがなきゃ、ここに来た意味がなくなるだろ?」
北川氏に「当然でしょ」と言い残しバーカウンターの中に入って行ったユリアさんは、あれこれ言いながらもカクテルを作り始めた。
ふたりのこんなやり取りはいつものことだが、真意を読み取り合っているというのか、言葉数が少なくても互いに分かり合っているのが伝わってくる。
私を呼ぶ声で我に返り再び席に着くと、彼はユリアさんの座っていた場所に腰を下ろした。
遠慮がちに隣を一瞥すると、高い鼻梁が美しい整った横顔をしているのでじつに羨ましい。
視線を正面へと戻しかけた刹那、不意にこちらを覗き込んできた彼と目が合ってしまう。今さら目を逸らせば顔を背けたと同じになり、注がれる眼差しをじっと受け止める。
「待ったよね、ごめん」
「いえ、私は構いませんので仕事を優先して下さい」
どこまでも優しい人だからこそ、私自身が彼の障害にはなりたくない。否、そうならないとあの時から決めている。ゆえに笑顔を浮かべて常套句を口にするのだ。
「大事な人を待たせてるのに?萌が帰ってないか気が気じゃなかった」
「……私は、北川さんから連絡が入るまでは帰りません」
「うん、それは分かってるけどね」
それでも彼はその態度が不満だと言いたげな顔を見せるので、仄暗く落ち着いた雰囲気の中、いつだって私の心は本音と建前がせめぎ合う。
『会えて嬉しい』と言ってしまったのだから、もっと素直になれたら楽になれるのではないのかと。
「店で色仕掛けすんな」というユリアさんの声とともに、私と彼の前には新たなカクテルが置かれた。
「あ、ありがとう。いつ見てもユリアの化けテク凄いな」
「へぇ、言うわね。萌ちゃんにあることないこと吹き込もうかしら」
「萌に秘密はないけど?……今さらだけど萌、今夜も綺麗だね」
軽口を叩くふたりを見ていると、私をまっすぐに見て微笑んだ彼に胸がギュッと締めつけられる。
仕事中には見られない表情、そして掛けては貰えない甘い言葉たちに触れる度、どうするべきなのか時おりブレが生じてしまう。
ここで縋る勇気を出せばきっと、その先にはかつてのような幸せが待っているのに……。
「ユリアさんのおかげで化けただけですよ」
意味のない仮定を打ち消すように苦笑した私は、臆病な自分にいささか厭きれながらカクテルに手を伸ばした。
「化けテクもたまには人の役に立つな」
「……この前、駅前でナンパされたって言ってないだろ?」
そこに割り込んできたユリアさんの威力ある発言にはさすがの彼も目を丸くさせている。
「ま、優斗はナンパの対処に慣れてるみたいだけど?」
ふふん、と鼻で笑ったユリアさんは訳知り顔で容赦なく毒針をチクチク刺すが、当の彼はチッと舌打ちを鳴らすのみ。これもふたりが知己であると示している。