蜜愛フラストレーション
九.やなぎにかぜ
一触即発の状態が続く隣はさておき、ひとり黙々とすべきことに集中したこの日は19時過ぎに片がついた。
課長とチームリーダーからの指示通り、明日からは悠長にしていられない。せめて今夜はゆっくり休めとのお達しだ。
朝より顔が険しい蔵田さんとある意味で勇者なハルくんに挨拶すると、いまだ賑わしいフロアをあとにした。
乗り込んだエレベーターが地上で停止し、エレベーターホールを抜けた私は、人もまばらなロビーを早足で歩いて行く。
その途中で、「萌ちゃん!」と後ろからよく知る声で呼び止められた。
すぐに立ち止まって振り返ると、ジャケットを手にした松木さんがこちらに駆け寄ってくるところだった。
「お疲れ様です」
はぁはぁ、と若干息を切らした彼に小さく笑いながら話し掛ける。
「うん、お疲れ。ねえ、今夜って」
「——空いてない」
「……は?」
人懐こい笑顔の松木さんの話を遮るようにして、突如聞こえた低い声。虚を衝かれた私の口からは間の抜けた声が漏れる。
そろり後ろを見やると、背後にスーツ姿の見知らぬ男性が立っていた。
腰辺りまでありそうな落ち着いた茶色の髪を後ろでまとめたその人。印象的なアーモンド形の瞳は私を通り越し、松木さんに向いていた。
「あの、」と声をかけた瞬間、その男性の手でグッと肩を引き寄せられる。
「萌、早く帰るよ。——では失礼」
松木さんに美しい一笑を残した男性は、私を連れてあざやかにその場をあとにする。
状況が飲み込めずに連れられて行く私の口はじつに役立たずなもの。……この非情に強引な人、一体どなたですか。