ベビーフェイスと甘い嘘
「こんにちは」
私に向かって柔らかな声で挨拶をしたその人は、グレーのパーカーとジーンズの上に藍色のエプロンを身につけていた。
そのエプロンの胸元には紅い糸で『ウサミ』の文字が刺繍されている。
さらりとした黒髪を揺らしながら、人の良さそうな笑顔を見せるその男を、私は信じられない思いで見上げていた。
……終わった。何もかも。
私の……退屈だけど平穏だった日々が、今確実に終わってしまったんだ。
動揺を隠せない私を見て、目の前の男はその形の良い目を細めてニヤリと笑った。
「ホットコーヒーのRサイズをお願いしますね」
「……『カシワヤ アカネ』さん」
少しだけカウンターの向こうから身を乗り出し、私の耳元に囁きながら、あの日私の身体を乱したその長い指先が私の名札を弾く。
その瞬間、弾かれた胸元から身体の奥底がゾクリと震えて、痺れて、電流のように全身を走り抜けた。
あぁ……後腐れがないなんて思った私がバカだった。思いっきり面倒なことになってしまったみたいだ。
「……かしこまりました」
これ以上ここで固まっていたら初花ちゃんに不審に思われてしまう。ギシギシと固まる身体を無理やり動かしてコーヒーの準備をしようと男に背中を向けた。