ベビーフェイスと甘い嘘
11時を回った。そろそろ昼前だからお店も忙しくなってくるはずだ。
短冊だけは書いておかないと。
『いろいろな事に興味関心を持つ』とピンク色に映えるようにPOP用のネイビーのペンを使って大きな字で書いた。
「すみません」とふいに声をかけられた。
短冊に集中し過ぎて目の前にお客様が立っていたのに気がつかなかった。人の気配に慌てて顔を上げる。
笑顔で「お待たせしました」と言いかけて……それよりも先に「何だ……」という言葉が口から出てしまった。
「『何だ』って……酷くないですか?」
直喜が苦笑いを浮かべながら立っていた。
「だってお客様かと思ったんだもの」
わざと声色まで変えて声をかけるヤツに笑顔で接客するのも勿体ない。
「俺はコーヒーを買いにきた『客』ですよ。だからとびきりの笑顔で迎えてくださいねー」
どうしてこの男は、いつも私が一人でレジにいる時に現れるんだろう……。
ふと、直喜が私の手元を見た。
「やっぱり『アカネ』さんって、この漢字なんだ」
その視線の先には今書き終わったばかりの短冊があった。
「そうよ、茜。ひねりもなくて平凡な名前でしょ」
私は自分の名前があまり好きではない。
『茜』は濃く暗い赤色のこと。
暗くて、平凡で、野暮ったい。まるで昔の自分を象徴しているようだ。
どんなに姿形を変えて表面だけ繕ってもこの名前が変えられないように、自分自身の本質は決して変えることができない。ついそんな事を思ってしまう。