恋せよブラ
プロローグ
間もなく三十路が迫って参りました二十八。
振り返れば、仕事に生きた二十代。彼氏を作る暇もなく、せっせと働き稼いだ金を使う時間もない。そうして、もてあました金を友人の結婚式に使う日々。特に仲良くもない知り合いの結婚式でも、ためらいもなくばんばんとお賽銭の如くご祝儀を振りまくようになっていた。どうか、誰かいい独身男と巡り会えますように、と祈りながら御祝儀袋を渡す虚しさや。新婦そっちのけでゲスト席の男に目を光らせている自分に気づいて自己嫌悪──そんな心ばかりのはじらいも、最近ではなくなってきてしまった。
もうどうでもいいから、そろそろ、いい男と出会いたい。
二十代後半の恋愛なんて、金と妥協。ただでいいものを得ようとするなんてずるい考えは若さとともに捨てた。金をかけなきゃ、独身男と出会えない。そういう年になってしまったのだ。そろそろ、婚活というものを始めなくては。
でも──そうは思いつつも、不安になる。
本当に出逢いがないせいなのだろうか、と。
「この歳で結婚してない男は、売れ残りなのよ。なにかしら、ワケありなわけ」
そう物知り顔で語る既婚女性。頬に添えた左手の薬指に輝く指輪の眩しいこと。ゆるくウェーブがかった長い髪。ぱりっと着こなした上質なグレーのスーツ。しっかりと流行を押さえつつ、無理した若作りを感じさせないメイク。右手には、このデパートの地下にある有名な和菓子店の買い物袋が提げられている。お得意様への手みやげだろう。
就職してから、六年。彼女もすっかりキャリアウーマンが板についた。大学に入り立ての十八のころの彼女を知っている私には、少し気恥ずかしいくらい。
彼女は、飯田沙織。某広告代理店で、営業をしている私の友人だ。彼女のお得意様の職場が、私が務めるこのデパートの近くらしく、よくこうして手みやげを買うついでに寄っては世間話をしていくのだ。
「うちの姪っ子の学校の担任も、若くて超イケメンなんだけどさ、独身なんだって。不思議でしょう。そしたら、なんと……昔、浣腸しながら授業してたんだって! 変態なのよ、変態」
「か、かんちょう……?」
私は周りに誰もいないことを確認し、小声で聞き返した。
「姪っ子って、たしかまだ小学生でしょ? 小学校の先生がそんな趣味あっていいわけ? 世も末ね」
「写真も見せてもらったんだけどさ」沙織は物憂げにため息吐いた。「確かに、顔はすっごくいいのよね。ほんともったいない」
「やっぱ、この歳で独身の男を捜そうとすると、そういうのしか残ってないのかなぁ。でも、逆に言えば、私もそうなのよね。ワケあり女、てやつ。こうして売れ残っちゃってるわけだから」
はは、と乾いた笑みをこぼす私に、沙織は切れ長の目を見開き、ぐんっと顔を寄せてきた。
「あんたは違う! あんたは、出逢いがなかっただけ!」
何を根拠にそんなことが言えるのか。だが、自信満々にそう断言されると、その言葉に甘えたくなってしまう。
出逢いがなかっただけ。だから、私は独り身なんだ。──そう自分に言い聞かせてきた。
独身の男は売れ残りで、私は出逢いがなかっただけ。そんな非論理的な慰めに甘えて、私は高みで男を待っていた。でも、そろそろ、気づく。こんだけ待って誰も現れないんだ。もしかして、出逢いがないとか、そういう問題じゃないんじゃないか、て。そんなのはただの現実逃避で、問題があるとすれば、それは──私?
「こういう職場じゃ、男と出会えなくても仕方ないわよ。今度、うちの職場の奴、誰か紹介するから」
そう言う沙織に、決して同情するような色はなかった。
きっと、沙織には私を慰めようとかそういう他意はなくて、本当に心から思っているんだろう。私に足りないのは、出逢いだけだ、て。
「さて、そろそろ、行かなきゃ」ブランドものの高そうな腕時計をちらりと見て、沙織はハイヒールを鳴らして身を翻した。「じゃ、またね、すみれ」
「いってらっしゃい」
軽く沙織に手を振り別れを告げて、私はぽつんと一人佇む。
言い訳をするつもりはない。でも、確かに、職場にも問題はあると思うのだ。
私はぐるりと辺りを見渡した。カラフルなブラとショーツが、お花畑のように私の周りに広がっている。──女性用の下着売り場。それが、私の職場であり、独り身人生の大半を過ごす場所である。
ちらほらと見当たるお客様は、私と同い年か少し上の女性ばかり。平日のお昼前だ。そんな時間帯に下着を買いにこれる女性なんて限られている。皆、左手の薬指に指輪を光らせ、余裕の表情。手に取るレースたっぷりのカワイイブラや、黒のセクシーなブラは、旦那様を悦ばせるためのものなんだろう。
そう、こんなところで男と出逢えるはずもない。ここに来る男といえば、若い女の子に貢いでいるおじさんか、彼女の買い物に付き合う彼氏。もしくは、変態だ。
だから──、
「すみません」
そんな男の声にも期待なんてしてなかった。
「はい?」
振り返った先に、どんなイケメンがいようと、私は動じない自信があった。だって、こんなところに、独身で彼女もいない良い男が現れるはずはなかったんだから。
「聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
見上げるくらい背が高くて、筋肉質すぎない引き締まった身体。きゅっとくびれた細い腰。さっぱりと爽やかな短い黒髪。男らしく凛々しい眉に、優しげな甘い笑顔。若々しいエネルギーを漂わせながらも、堂々と佇む姿は頼もしくて風格がある。
私は営業スマイルも忘れて、ぽかんとして見惚れていた。
ずっと、待ち望んでいた『王子様』が現れた。年甲斐もなく、そんな乙女みたいなことを考えてしまった。ブラとショーツが色鮮やかに咲き誇る下着売り場で。
振り返れば、仕事に生きた二十代。彼氏を作る暇もなく、せっせと働き稼いだ金を使う時間もない。そうして、もてあました金を友人の結婚式に使う日々。特に仲良くもない知り合いの結婚式でも、ためらいもなくばんばんとお賽銭の如くご祝儀を振りまくようになっていた。どうか、誰かいい独身男と巡り会えますように、と祈りながら御祝儀袋を渡す虚しさや。新婦そっちのけでゲスト席の男に目を光らせている自分に気づいて自己嫌悪──そんな心ばかりのはじらいも、最近ではなくなってきてしまった。
もうどうでもいいから、そろそろ、いい男と出会いたい。
二十代後半の恋愛なんて、金と妥協。ただでいいものを得ようとするなんてずるい考えは若さとともに捨てた。金をかけなきゃ、独身男と出会えない。そういう年になってしまったのだ。そろそろ、婚活というものを始めなくては。
でも──そうは思いつつも、不安になる。
本当に出逢いがないせいなのだろうか、と。
「この歳で結婚してない男は、売れ残りなのよ。なにかしら、ワケありなわけ」
そう物知り顔で語る既婚女性。頬に添えた左手の薬指に輝く指輪の眩しいこと。ゆるくウェーブがかった長い髪。ぱりっと着こなした上質なグレーのスーツ。しっかりと流行を押さえつつ、無理した若作りを感じさせないメイク。右手には、このデパートの地下にある有名な和菓子店の買い物袋が提げられている。お得意様への手みやげだろう。
就職してから、六年。彼女もすっかりキャリアウーマンが板についた。大学に入り立ての十八のころの彼女を知っている私には、少し気恥ずかしいくらい。
彼女は、飯田沙織。某広告代理店で、営業をしている私の友人だ。彼女のお得意様の職場が、私が務めるこのデパートの近くらしく、よくこうして手みやげを買うついでに寄っては世間話をしていくのだ。
「うちの姪っ子の学校の担任も、若くて超イケメンなんだけどさ、独身なんだって。不思議でしょう。そしたら、なんと……昔、浣腸しながら授業してたんだって! 変態なのよ、変態」
「か、かんちょう……?」
私は周りに誰もいないことを確認し、小声で聞き返した。
「姪っ子って、たしかまだ小学生でしょ? 小学校の先生がそんな趣味あっていいわけ? 世も末ね」
「写真も見せてもらったんだけどさ」沙織は物憂げにため息吐いた。「確かに、顔はすっごくいいのよね。ほんともったいない」
「やっぱ、この歳で独身の男を捜そうとすると、そういうのしか残ってないのかなぁ。でも、逆に言えば、私もそうなのよね。ワケあり女、てやつ。こうして売れ残っちゃってるわけだから」
はは、と乾いた笑みをこぼす私に、沙織は切れ長の目を見開き、ぐんっと顔を寄せてきた。
「あんたは違う! あんたは、出逢いがなかっただけ!」
何を根拠にそんなことが言えるのか。だが、自信満々にそう断言されると、その言葉に甘えたくなってしまう。
出逢いがなかっただけ。だから、私は独り身なんだ。──そう自分に言い聞かせてきた。
独身の男は売れ残りで、私は出逢いがなかっただけ。そんな非論理的な慰めに甘えて、私は高みで男を待っていた。でも、そろそろ、気づく。こんだけ待って誰も現れないんだ。もしかして、出逢いがないとか、そういう問題じゃないんじゃないか、て。そんなのはただの現実逃避で、問題があるとすれば、それは──私?
「こういう職場じゃ、男と出会えなくても仕方ないわよ。今度、うちの職場の奴、誰か紹介するから」
そう言う沙織に、決して同情するような色はなかった。
きっと、沙織には私を慰めようとかそういう他意はなくて、本当に心から思っているんだろう。私に足りないのは、出逢いだけだ、て。
「さて、そろそろ、行かなきゃ」ブランドものの高そうな腕時計をちらりと見て、沙織はハイヒールを鳴らして身を翻した。「じゃ、またね、すみれ」
「いってらっしゃい」
軽く沙織に手を振り別れを告げて、私はぽつんと一人佇む。
言い訳をするつもりはない。でも、確かに、職場にも問題はあると思うのだ。
私はぐるりと辺りを見渡した。カラフルなブラとショーツが、お花畑のように私の周りに広がっている。──女性用の下着売り場。それが、私の職場であり、独り身人生の大半を過ごす場所である。
ちらほらと見当たるお客様は、私と同い年か少し上の女性ばかり。平日のお昼前だ。そんな時間帯に下着を買いにこれる女性なんて限られている。皆、左手の薬指に指輪を光らせ、余裕の表情。手に取るレースたっぷりのカワイイブラや、黒のセクシーなブラは、旦那様を悦ばせるためのものなんだろう。
そう、こんなところで男と出逢えるはずもない。ここに来る男といえば、若い女の子に貢いでいるおじさんか、彼女の買い物に付き合う彼氏。もしくは、変態だ。
だから──、
「すみません」
そんな男の声にも期待なんてしてなかった。
「はい?」
振り返った先に、どんなイケメンがいようと、私は動じない自信があった。だって、こんなところに、独身で彼女もいない良い男が現れるはずはなかったんだから。
「聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
見上げるくらい背が高くて、筋肉質すぎない引き締まった身体。きゅっとくびれた細い腰。さっぱりと爽やかな短い黒髪。男らしく凛々しい眉に、優しげな甘い笑顔。若々しいエネルギーを漂わせながらも、堂々と佇む姿は頼もしくて風格がある。
私は営業スマイルも忘れて、ぽかんとして見惚れていた。
ずっと、待ち望んでいた『王子様』が現れた。年甲斐もなく、そんな乙女みたいなことを考えてしまった。ブラとショーツが色鮮やかに咲き誇る下着売り場で。