やさしい恋のはじめかた
カラスの姿はもうなかった。
思わず反射的に大海に目を向けると、彼はまだ茜色の空を眺めていて、その視線はずっと先――この街のどこかにいる、会ったこともない桜汰くんに向けられているような気がした。
その横顔に息を呑む間もなく、大海は続ける。
「俺はこうして話をしたから、いつまでも待つって決められたけど、彼はなにもわからない。俺たちだって散々身に染みて学習しただろ、言わなきゃいけないことは言っておかないと、こんなことになる。里歩子が髪を伸ばすって決めたことは、十分それに値すると俺は思う」
「それは……そうかもしれないけど。でも……」
「じゃあ、俺が会いに行く。里歩子を待ってやってくれって頭だってなんだって下げる」
「ちょっと待ってよ、なんで大海がそこまで……」
思わず立ち上がってしまった拍子に、椅子がガタンと大きな音を立ててうしろに倒れた。
おまけに紙コップの中身まで撒けてしまい、ほとんど口をつけていなかったそれは、盛大にテーブルに広がり、すぐに床にぽたぽたと落ちていく。
自分のあからさますぎる動揺ぶりに短いため息がもれて、同時に泣きたくなった。
けれどこのままにしておけるはずもないので、急いで掃除用具入れから雑巾を取り出し、きつく唇を噛みしめながら汚してしまった部分を拭き取る。
すると、動じることなく手伝ってくれていた大海が、ふいに「嫉妬してたけど、それと同じくらい感謝もしてたんだよ」とぽつりとこぼした。