やさしい恋のはじめかた
 
けれど大海は、そんな私に「顔を上げて」と優しく促す。

その声のトーンも、調子も、だけど私には胸に痛すぎて素直に従えないのが実際のところだ。

すると大海は、すっかり体の力が抜け、この場を立ち去る気力も削がれてしまった私の手に自身の手を重ねて「じゃあ、そのままで聞いて」と、また優しい調子で言う。


「前も言ったけど、里歩子はよく頑張った。それをみんなわかってるから、誰も責めたりなんかしない。ただ、ひとつだけ注文をつけさせてもらうなら、どちらかに絞ってほしい。あるいは、まったく違う誰かでも、それならそれで構わないし、しばらくひとりでいたかったら、それもありだ」

「……」

「ただそれは、俺たちの気持ちがもたないとかじゃなくて、異動の話みたいに、里歩子が一から考えて、これからの自分にはなにが必要か、誰が必要かをしっかり見極めてほしいからだ。里歩子に丸投げする形になって申し訳ないと思う。けど俺は、すべて里歩子に委ねる。彼もきっと同じ気持ちだ。なんとなくわかるんだよ、同じ人を好きになったから。だから、里歩子が会いに行かないなら、俺が行こうと思う」


彼とフェアじゃないのが、一番嫌なんだ。

そう言った大海の表情は、ずっとうつむいたままの私には窺い知ることもできなかった。

ただ、声の調子だけは相変わらず優しくて穏やかで、温かな手の温度と相まって、それだけで涙が止まらない。


「……仕事とプライベートは別物だよ」
 
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